さて今週から来週にかけては、昔を振り返り、1980年代(昭和55年から平成元年)のスチュワーデスと日本人の海外旅行事情についてお話をしてみたいと思います。
実はこの「日航123便墜落の新事実」の執筆中、昔の資料や思い出の日記、当時の様々なグッズを引っ張り出して当時をイメージしながら、あの時はこうだったなあ、などと思いながら書いていました。当時を知らない人のために、原稿の段階で、注釈で少しその一部を入れたところ、担当編集者から「あまりに面白すぎるので、別の本にしましょう。これを入れると、この本の全体の流れが変わるからカットします」と無残に言われてしまい、泣く泣くカットした部分をぜひ皆さまにご紹介したいと思います。
1980年代、日本は一般庶民も海外旅行に行けるぞ!ということで、地方は農協を中心として、都市部はパック旅行の全盛期突入、という時代でした。ちょうど昨年ごろまでの中国の方々などと同じようにお金を持ち、大挙をしておしかけるような団体旅行でした。
航空会社ではばら売りの席は高額で、座席の値段がエコノミーの席でも何十万と高額でしたから、いまのような個人客はほとんどいません。会社からお金が出る海外出張者以外はパックで海外旅行、という時代でした。実はその当時、現在のHISの創業者Sさんが、バックパッカーとして欧米で切り売り(余った席)を安く手に入れて飛行機に乗ることを覚え、その残った席を格安で売る、という手法を学んで帰国して現在の格安旅行市場を作ったと聞きました。しかし、これは航空会社にとって正直言って嫌な市場、お客様にとっては最高の市場だったのです。いわゆる網の目をくぐって出来た格安航空券の市場でしょう。そんな時代だったと思ってください。
さて話を戻すと、カットされてしまった部分ですが、当時を思い出しながらどうぞ読んで下さい。
以下、カット部分の秘話です!
〈一九八五年当時、マイレージや格安航空券などなかった時代で、国際線のファーストクラスはノーマル運賃で大変高額であり、ビジネスクラスも企業等の出張が殆どで、一般客は新婚旅行や自治体の視察旅行、農協関係など団体客が多かった。
直行便の最長路線はニューヨーク便で、北回りヨーロッパ便は全てアンカレッジ経由、南回り路線は、東京、バンコック、デリー、カラチ、アブダビ、バーレーン、クウェート、ジェッタ、カイロなど中近東を経由してアテネまで飛んでいた。このフライトが入るとクルーは最長十八日間、家に帰れなかった。
私の記憶する思い出話としては、大阪発ソウル行きで、テ―ブルの上には現金と花札が飛び交い「姉ちゃん」と呼ばれたこともある。おしりを触られた、と言って新人スチュワーデスが泣きそうになったこともあった。そんな怖いお兄さんたちでも、絶対にこちら側の指示に従わなければ着陸後逮捕されてしまうことがある。それは、ソウル空港到着前には必ず機内全ての窓を閉めることであった。これは軍事機密上、空港周辺が国防施設の為とのことだった。北朝鮮との関係や、日本と韓国との関係にとって飛行機の窓を閉めることが重要だった時代である。
南回りでは、インドからの出稼ぎ労働者がカイロなどに行くため、初めて乗る飛行機で文化的にもトイレの使い方がまったくわからないため、座席の上や通路もトイレと思い込んで、その後始末が大変だった。ついこの間までの日本もそうだが、インドも農業の肥料として糞尿は貴重だったことが理由だろう。インドでは道端や田んぼで用を足すことが当たり前であったので、そこで、飛行機内の通路、座席の上、トイレのふたの上、は当たり前に用を足すところであったのだ。中には、ターバンをトイレの水(ブルーレットで色がきれいだと思ったらしい)を使い、便器で洗濯をして、機内の座席の上に干していた。なお、真っ白なターバンはたちまちブルー色に染まり、それを見て驚いた私に、綺麗だろう、と自慢されたことがある。
ちなみに、なぜインドの出稼ぎ労働者がJALに乗っていたかというと、自国のインドのナショナルフラッグのエアーインディアは、スチュワーデスがカースト制のトップクラスのお嬢様だったため、それより以下の身分のものへサービスは出来ない、という理由で乗せてもらえなかったからである。JALはその路線は安く乗せてあげていたそうである。
私が初めてファーストクラスを担当した時、ある富豪がクルーのサービスが良かったと乗務員全員を自家用大型ヨットのクルーズに招待してくれたこともあった。
パリでは、日本人観光客がお金を使いたい放題で爆買いするため、ショッピングツアー客は現地では有難いお客様の反面、マナー違反の日本人、というレッテルが張られていた。例えば、エルメスのスカーフの綺麗な展示品はおばさまたちがバーゲンのようにひっくり返すのでぐちゃぐちゃになり、いつも店員が渋い顔をしていたし、ヴィトンのバックのお店はオープン前に日本人が並ぶため、仕方がなく早々に開店して、店内は日本人だらけとなっていた。
当時のハンサムな人気俳優のアラン・ドロンとの夕食ツアーに参加する団体客は、全員日本人の中年女性ばかりで、とても華やかなロングドレス姿で、赤や黄色、青、のスパンコールの全身をキラキラさせて、団体バスに乗って集団でレストランに行き、パリの人達があまりのすごさに驚いて見ていた。
ニューヨークのティファニーでは、『ティファニーで朝食を』の映画のシーンをまねて、日本人の為に営業時間前の早朝、ティファニー店内で日本人が朝食を食べるツアーもあって、米国人もびっくりしていたこともあった。日本人観光客の振る舞いにこんな時代もあったことを、今、知らない人たちにぜひ伝えておきたい。〉