皆さまもすでにご存じの通り、加藤紘一氏が9月9日に77歳で御逝去されました。
加藤氏は事故時の防衛庁(当時)長官で49歳でした。あの事故の次の日、1985年8月13日付のジャパンタイムスの記事には、中曽根氏と共に加藤氏が米国太平洋軍司令官のWilliam J.Crowe氏に日本国からの感謝の意を込めたという勲章を授与している写真が出ていました。そしてCrowe氏が来月半ばに任期途中に帰国する旨が書いてありました。通常、太平洋軍司令官は3年から4年間が任務期間ですが、彼は1983年7月1日から1985年9月18日の2年2か月と短い期間でした。他の司令官の任務と比べて見るとその短さに違和感を感じます。
さて、加藤氏には1998年頃にお会いしたことがあります。その時は宏池会主催で日本の21世紀構想について論文が募集されて、私の論文が入選したという事でお会いしました。今思うと、ちょうど加藤の乱の前でしたが、数々の国際的な問題に対して真剣にこの国の行方を考えていらっしゃいました。大変温厚で知性溢れる方という印象があります。実はその時は私自身も全く日航123便の事故について詳細に知らず、一般人同様に事故原因に疑問すら持っていなかったのです。しかしその後、拙著を書く中で調査した結果、様々な事実があきらかになってきました。そこで123便の事故原因について、遺族の方と共に加藤氏に荒唐無稽とおっしゃらないでください、と伝えたくなり、もう一度加藤氏にお会いしてお話を聞く機会をお願いしました。ちょうどそのチャンスを与えてくれた人がいらっしゃったので、その方とご一緒に永田町へ出向く予定でした。これは2014年の話です。その頃偶然ですが、マレーシア航空機行方不明事件がありました。そして、ミャンマーから帰国後にお話しを聞く機会を設定していただいていたのです。
その後報道のように体調を崩されて入院し、リハビリの毎日だったとお聞きしました。
結局123便事件についてはお話をお聞きすることが出来ず、本当に心残りな気がします。あの時、ミャンマーに行く前にお話しを聞けば良かったと大変残念に思っています。心からご冥福をお祈り申し上げます。