「日航123便墜落―遺物は真相を語る・天空の星たちへ」公式ブログ

1985年に起きた日航123便墜落事故を、当時日本航空スチュワーデスとして勤務していた著者・青山透子が、事故の真相を追い求めて綴ったノンフィクション

記録されない事実を掘り起こして書く意義   青山透子

まだ夏は終わらず、もったりと湿った空気の中、ふらりと立ち寄った図書館にて、立花隆氏が書かれた古い本を見つけた。立花氏とは、私が先生の講義を受講した頃からの知り合いであり、日航123便についてゼミでも話をして、私の本も読んで頂いている。

先生のお母様がお亡くなりになった時も知り合いの編集者や学友と共に参列したが、関係者のみのお別れ会で小雨にもかかわらず、各出版社社長など多くの人達が故人を偲んでいらしていた。あの時は美味しいお茶とお菓子をいただきながら、御母堂様の愛読書「幸福論(アラン著)」も形見分けに頂戴した。そういえば新潮社の社長や重役の方もいらしていたが、今私にあの失礼で卑怯な取材をもちかけてきた記者の話を聞いたら何と思われるだろうか。もっと失礼なのはその陰に隠れている人かもしれない。

さて、図書館で偶然目に入ったその本「エーゲ・永遠回帰の海(書籍情報社)」は、立花氏が写真家須田慎太郎氏と、1982年にギリシャを中心としたエーゲ海沿岸を40日かけて取材旅行をした際に書き記したものと美しい写真によるものであった。当時の立花先生は田中角栄研究の本を執筆中であったが、裁判の合間に息抜きで紀行文を書いたとのことだ。私も今、日航123便事件の本を3冊、世の中に送り出してほっとしていた時であり、エーゲ海ブルーの表紙がすっと目に入ってきたのである。その中に下記の文章があった。

「記録された歴史などというものは、記録されなかった現実の総体にくらべたら、宇宙の総体と比較した針先ほどに微小なものだろう。宇宙の大部分が虚無の中に呑み込まれてあるように、歴史の大部分もまた虚無の中に呑み込まれている(p46)」

そうなのだ。そういう記録されていなかった事実を掘り起こして、本として書き記して残しておくことが重要であり、本にはそういう価値が含まれている。今ようやく、それを実感することができた気がする。

 

そして、もう一冊の本が目に入り込んできた。「服従の心理 アイヒマン実験(S・ミルグラム著)」である。

はしがきにある次の言葉は人間の心理を端的に表している。

「盗み、殺し、暴行を心の底から忌み嫌っている人でも、権威から命令されると、これらの行為をわりあい気軽にやってしまう。自分の意思でふるまっているときなら考えられもしない行動が、命令された時にはためらいもなく実行される。(p9)」

これは、今の隠ぺい体質と言われている組織に十分当てはまる。軍隊は特にそうだろう。官僚たちも、政治の世界もそうだろう。外部から閉じた世界であればあるほど当てはまる。自分事であればためらうことも、組織の中で、自分より上の権威ある人からの命令であれば、規範意識すらなくしてしまい、責任も感じず、行動してしまう。これが社会を腐らせる源である。

そして、こういった権威と服従の関係には必ず報酬構造と密接に結びついていると書かれている。つまり、個人的に責任を負わず、命令だからと権威者に服従さえしておけば、報酬が得られて自分の懐が潤う。しかし、服従しなければ罰せられる可能性があり、さらにはめられてお金もなくなる、こういう報酬構造の中で、まるで囚人と看守の関係のように陥っていく。そこに必ずヒエラルキーも深く絡んでくる。

昨今の自分の息子を入学させてもらうかわりに補助金を出してあげる(これはその個人のお金ではなく税金だというのにまるで自分に裁量があることを勘違いする)、という官僚と大学との関係や、首相に取り入ったお友達として多額の値引きがあった森友問題、特別獣医学部を許可された加計問題とも通じるだろう。

多くの人達の心には何が正しく、何が間違いであるか、これはやってはいけない、という規範意識や良心がある。しかし、過去の失敗を認めたくない体制固持や、自己利益や保身にすぎないことを、いかにも全体の利益のごとく語る権威者がトップの組織において、その組織全体が人間性を見失った時、全く別の「新しい動物が出現する(p244)」ということが実験結果からわかったということだ。その動物は「権威による賞罰のみを気にする動物」だそうだ。これは、まさに日航123便事件を33年間も、その墜落原因をする人やその追及を放置させるよう仕向けてきた人たちに当てはまる。真実を追究している人に対しての嫌がらせもそうだ。

私の本をしっかりと読んで下さる読者の皆さんは、実に客観的で誠実な感想を寄せてくれる。当然のことながら、平常心を持つ普通の人達である。しかし、「権威者の賞罰のみを気にする動物」と化した人たちは、誤った読み方をして、都合の悪い部分をスルーして、どうでもいいことをあげつらう、お門違いな批判をする。逆にそれが不都合な事実だと自ら暴露していることを一般の人たちが気づいていないとでも思っているのだろうか。

 

なお、今年の8月12日の群馬県上野村での慰霊祭に際して次のような情報を頂いたので皆様にお伝えしておく。

昨年までの慰霊祭では、加害者席に日航が座り(真ん中の位置)、航空局はその端であった。しかし、今年は、日航関係者が隅のほうで端に移動して、逆に中程の位置に国土交通省の航空局が座った。例年、名前も日本航空取締役〇〇と、座席に書いてあったが、今年は日本航空の文字がなく、名前のみの記載と変わっていた。それに対して、例年10名参列の航空局の役人はなぜか4名増えて14名となり、名前も航空局のみだったのが、今年は航空局〇〇、と名前が入ったそうである。両者の責任関係に変化が出てきたのではないだろうか、との情報であった。何等かの変化が生じているのは事実であろう。しかしながら、33年間、一度も防衛省自衛隊関係者が出席していないのは、いかがなものだろう。全く責任がない、という意思表示なのだろうか。

さらにもう一つ事実をお伝えしておく。昨年、学友から、東大本郷キャンパスの図書館でも貴女の本は10人以上待ちですごい人気よ、とメールがきた。大変嬉しかったことを覚えている。しかし、今年に入り、急に貴女の本のタイトルを探しても出てこない、と言われた。これはいったいどうしたことかと図書館司書に聞いたところ、勝手に持って行った人がいたり、破損したり、何等かの作用があった場合、そういうことがありうる、とのことであった。破損や勝手にくすねていったのであれば、それは仕方がないのだが、万が一、どこかの役人が(自分の息子を大学に入れて補助金という公金を渡すという部署)が何等かの指示を出していたとすれば、大問題であろう。

誰が破損させて、持っていったのか、今調べてもらっている。

 

最後に、私たちは、この正常な社会を保つため、努力し続けなければならないことをお伝えしたい。私自身、この日航123便問題を取り上げたきっかけは、第一作を読んで頂ければ明確にわかる通り、学生たちの問答からであった。何のバイアスもかかっていない時、むしろ公表されたものを事実と信じていた時である。

その後、おかしいと気づいた時から、事実関係を明確にしなければ先輩も含め520人の命が報われない、との思いからスタートを切った。そこに研究者としての魂も入った結果、第三作目が完成した。

事実を積み上げてたことに対して、私たちは謙虚にならなければならないのだ。

自分の都合を優先し、たった数名のメンツや罪人をかばうために、520人の命をないがしろにした「権威による賞罰のみを気にする動物」の存在を許してはいけないのである。それに加担して、沈黙を続けている間は一生普通の人間としての幸福が保てない。

幸福とは、一人の人間としての安らぎを得られる環境を私たち自らが作っていくことで得られる心の有り様と考える。

自己愛と己の立場だけを優先される権力者は周りの無知を増長するにすぎず、隠ぺいでは幸せは得られない。