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「日航123便あの日の記憶 天空の星たちへ」公式ブログ

1985年に起きた日航123便墜落事故を、当時日本航空スチュワーデスとして勤務していた著者・青山透子が、事故の真相を追い求めて綴ったノンフィクション

なぜ松永はウソをついたのか~中曽根氏の戦後日本外交から読み解く

中曽根康弘が語る戦後日本外交(2012年、新潮社)」から見えた事実 

                                   青山透子

随分と分厚い本の中で、日航機墜落事故(p417-p418)は、たったの2ページだけ記されていた。その内容は、遺族への哀悼の意や事故原因には一切触れず、終始言い訳のような内容であった。

その中で、新聞報道とのズレの部分は次のところである。事故の報告をいつ聞いたのか、という質問(中島琢磨龍谷大学准教授)に対して、中曽根氏は「日航ジャンボ機墜落事故の報告が私に届いたのは、軽井沢から東京に戻る列車の中で、午後7時過ぎでした」と答えている。しかし、当時の新聞報道では、上野駅から官邸に直行せずに40分以上もかけて走り、さらに到着後に囲まれた記者たちの問いかけに、「ほう、そんな事故があったのか」と答え、記者から言われて初めて知った、と記されている。2012年に聞いた時期を訂正している、ということになる。または昔の自分の言動を忘れて、素直に答えた、とも言える。

本当は、軽井沢から戻る列車の中の車掌用電話で知り、官邸に到着後、こちらから(官邸)から、対策の指令も出した、と述べているのだ。

さらに、墜落場所の情報が二転三転したという点については、

「米軍もレーダーで監視していたから、当然事故については知っていました。あの時は官邸から米軍に連絡は取らなかった。しかし、恐らく防衛庁と米軍でやり取りがあったのだろう」

と中曽根氏は述べている。米軍と防衛庁が勝手にやり取りをして、首相が知らないわけはない。もしそれが本当ならば、全くシビリアンコントロールが効いていないことになる。

しかしながら、圧力隔壁事故ならば、こんなこともいう必要はない。今更敢えて言うということは、今になって究極の言い逃れをしているとしか思えない。つまり、自分は知らない、関わっていない、米軍と防衛庁でやり取りをして決めた、というニアンスを感じるのである。全てを松永のせいにしている、ともいえる。これでこのまま中曽根氏がお亡くなりになれば、全ては自衛隊が悪い、ということにもなる。後世に名前を汚すのは、松永氏である。

 週刊金曜日(8月7日号)にも目撃情報を記載したが、一般の人々の目撃者たちは、墜落前の日航機をファントム2機が追いかけ、さらに並走飛行状態であったのを見ているのである。私の最大の疑問はなぜ、松永(当時の航空自衛隊中部航空方面隊司令官)は嘘をついたのか、に尽きる。今後、ここに焦点を当てて考えていきたいと思う。

 なお、一部の自称軍事評論者からは、自衛隊の模擬標的機は支援艦(護衛艦あずま)がないと無理で、あずまは呉にいたから無理だとか、シースパローはそんなに7,000m位までの高度なので1万メートル以上飛行する日航機は狙えない、横田空域だから演習はしていない、といった不確かな情報やご意見があった。その気持ちはわかるが、そちらも証拠がない。さらに公試内容は公開していないのだから、これらの意見もまた憶測に過ぎない。

 高度については明確に指摘が間違いであることを述べる。当時のキャプテンにも確認をし、自分のフライトログも確認したが、東京大阪間のフライトはいつも短いゆえ高度は低く、24,000フィート(約7,200m)位しか上がらない。さらに常に横田空域の許可を得て空域管制で情報を共有して通過していた。ドーンという音とスコーク77を出した時は離陸後12分位であるから、まだ上昇中であったことからも、シースパローが十分届く距離である。

模擬標的機がその時、訓練支援艦と共にあったかどうかは公試内容の情報を開示しないのでわからない。例え標的機がなかったとしても、炸薬非搭載ミサイルにおける仮想敵機で行っていた可能性もある。その昔、自衛隊雫石事故のこともあるため、こちらもわからない。ただ、雫石事故で十分「(隠ぺいの仕方を)学んだ」ということは関係者から聞いた。

いずれにしても、海上自衛隊射撃訓練区域はいつでも防衛省のHPで見られる。

横須賀警備区や野島崎南方C区域、大島付近、伊豆大島東方(Y-1)でも航空自衛隊と共に訓練を行っている。ぜひ読者も見てほしい。毎年、訓練は8月から9月に多いようである。