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「日航123便あの日の記憶 天空の星たちへ」公式ブログ

1985年に起きた日航123便墜落事故を、当時日本航空スチュワーデスとして勤務していた著者・青山透子が、事故の真相を追い求めて綴ったノンフィクション

公式サイトをお読み頂いた皆様へ  青山透子より

 出版から4年間、今まで沢山の書き込みや情報提供、様々なモノをお送りくださいまして、本当に有難うございました。公式サイトを通じて、例えば、正義感溢れる自衛隊員の方、医師、看護士、上野村の人々、目撃者、当時の政治家等、実に多くの方々とお会いする機会に恵まれました。さらに50名以上の書き込み(公開、非公開も含めて)、380名以上の方々による「当時の状況、自分が見たもの、自分の経験談」を読ませて頂きました。ちょうど良い機会でしたのでそれらをまとめてみました。

当然のことながら、現場の皆さんの声としては「一生懸命救助したかった、一生懸命探したかった、命をもっと多く救いたかった」という人たちです。そしてあの日、あの夜、なぜ?こんなことを?という多くの疑問と苦悩の声です。

 

ちょっと皆様とご一緒にその「なぜ」について、考えてみましょう。

① 

災害派遣待機命令が発令されたが、その後出動ではなく中止命令が出たのはなぜか

 

812日、夜23時頃、一番先に捜索のため到着した機動隊員32名の案内を頼まれた地元民たちに対して、道案内を頼んでおきながら機動隊員から

「その場所は違う、こっちだ」と根拠のない主張をされた。

墜落現場はスゲノ沢だと言うと

「いいやそこではない、中ノ沢だ、上官の命令だ」と強く言われた。

人にものを頼んでおきながら命令とはどういうことか?

なぜ地元の土地に詳しい人の意見をわざと無視したのか?

 

③ 

なぜ一番先に到着した機動隊員は、わざと足が遅く、ゆっくり歩くのか、

おかげで、倍の時間がかかり、夜明けまで墜落現場にたどり着けなかった

 

夜中、ヘリが墜落現場上空にずっとホバリングして、モノの上げ下げをしていたが、何をそんなに急いで上げ下げしていたのか 

 

後からの幹部の発表では、一機たりとも危なくてヘリを飛ばしていないというが、

事故当夜、私たちが目撃した墜落現場上空にいた多数のヘリは、亡霊か?

 

自衛隊ヘリの合図を頼りに墜落現場まで行けると歩いたら、

結局全く違った場所に連れていかれたのはなぜか

 

自衛隊による墜落現場特定が遅くなったことについて、

山下運輸大臣自衛隊幹部が

「夜間用照明がなかった」とか「険しい山に仰天した、危ないから」とか、

夜に救助出来なかった理由をテレビや雑誌で反論した。

しかし、敵の侵略や戦闘は夜行うもので、その為に山奥で過酷な訓練をしてきた。

夜にヘリを出せないならば、いつ自衛するのか?

自分たちは夜に十分動けるための訓練を行ってきたのだから、プロとしての自衛官

を馬鹿にするような発言するとは情けない。それでも幹部か?

 

なぜ墜落場所を地元民や黒澤村長が伝えても報道は聞き入れなかったのか

特に13日早朝、地元では当然御巣鷹の尾根とわかっているのに、まだNHKでは、小倉山と報道し続けていて、呆れた地元民が、NHKの記者を怒鳴りつけた

 

なぜ一生懸命生存者を救助したのに、山頂に4時間近く生存者が放置されたのか

 

なぜ生存者を収容したヘリで、5分もかからない救急病院に行くのに、無線が故障と

言って30分以上、上空を旋回し続けたのか

 

⑪ 

4人も救助したと美談になっていたが、遺体状況からみて、つい先ほどまで生存して

いたと思われる人たちが100名ぐらいはいたはずである

 

自分はゼロ戦の指導教官だったが、戦時中でさえ場所は特定できた。

あの程度の山でましてや、1985年に墜落場所を測定出来ないわけがない。

パイロットを馬鹿にするな

 

 

以上、主なものだけですが、もっともっとたくさんありました。

 

なお重要な内容について、本人の了解を得たものについては航空関係者や研究者、関心のある政治家、そして一部の遺族の方に、いろいろなつながりを通じて、すでに書類や直接お会いして全てお話をし、お伝えしました。

 

その中で実はもう一つ、公人としての振る舞いで、ビックリしたことがあります。公人であった時期については公にするのが当然ですので、ここで皆さんとその情報を共有したいと思います。

 

 

続きははた明日・・・。