青山透子公式サイト 日航123便墜落の真相

日航123便墜落事件の真相を追究するー歴史的裁判開始の幕開け

管理人からのお知らせ

管理人です。メンテナンスのためブランク期間があり、大変失礼しました。

青山透子さんからの返信を公開しましたのでご確認下さい。

また、大勢の皆様からのご支持により、書籍も在庫切れとなっております。

市場在庫として、各書店の棚、又は倉庫などにある場合もありますので

まずはご近所の書店をご確認下さい。

今後につきましても検討中でございます。

皆さまのご支持を大変ありがたく思っております。今後ともどうぞよろしくお願い

致します。

 

 

信濃毎日新聞のコラム欄[斜面]に取り上げて頂きました

事故後29年、忘却と風化を憂う私にとって、大変嬉しい記事を書いて頂きました。

まだまだ知らない人も多く、このような記事でもう一度あの日を確認することは非常に重要です。記者の方に心から感謝申し上げます。

その記者の方も含め、それぞれがそれぞれの場所でニュースを聞いたあの日・・・

墜落現場を目指して山に入り、山深い中で道に迷い、又誤報続きで、ぶどう峠や御座山などをさまよい、全く見つけられず・・・・

汗と泥にまみれて、取材活動も苦労なさった方も多かったでしょう。

上野村から御巣鷹の尾根を目指し、山間の惨状を前に立ちすくんだ方も多かったでしょう。当時、私は乗務員をしていましたので、次の日もフライトで飛行機に乗りました。その惨状を直接見ることはありませんでしたが、本を書くにあたって、いろいろな方に取材をして少しはその時の皆さんの想いに寄り添うことが出来たのではないかと思っております。

あの日の無念とやり残した思いを胸に・・・

コラム記事を読者の皆さんと共有したいと思います。

下に信濃毎日WEBページを張り付けましたので是非お読みください。

***

なお、大雨による土石流で広島では多くの方々が山崩れでお亡くなりになりました。

突然に打ち切られた人生を想い、その無念さに心が痛みます。

同じ首相という立場で考えれば、あの時の中曽根氏とは違い、別荘地から官邸に来て救命活動の指示を出した安倍総理ですが・・ただ、あっという間に別荘に戻り、その理由が「急いできたので着替えがない、荷物を整理する為」とは・・・・

せめて言い訳するならば、別の嘘のほうがまだまし、だと思いますが、皆さんはどう思われますか。

本宅は渋谷区富ヶ谷、官邸と目と鼻の先で、当然、数日間の別荘よりは、自宅にいろいろな服も多く置いてあるですよね?その理由が通用するならば、子供も大人も、学校や会社で、行きたくない時にでも使ってみたくなりますね。誰が納得するのでしょうか?

それを官房長官が、大した話ではなく、問題はないというコメントでしたが、例えば、

「確かにそう思われても仕方がない」という一言があれば、被災者もすくわれるでしょう。それに、まだ客観的に見ているといった余地が感じられます。

これが自民党の圧倒的な力による政治の弊害で、検証能力のない実態だと言われても、過言ではないでしょう。批判能力の持たない人ばかりが周りを囲み、まるで裸の王様状態だと感じてしまいます。

自己批判すら出来ない政党によって牛耳られる私たちは一体どうしたらよいのでしょうか。せめて他人や権力を持つ人間に迎合することなく、客観的な視点をもって正しいことを正しいと言い、間違っていることを堂々を語る生き方をしたいものです。

自己の利益のみを考え、人をだますことや二枚舌で語ることは、いつかは破たんすると思っています。

(一部、誤解をされる表現がありましたので訂正しております)

 

 

***以下、信濃毎日新聞WEBよりコピー***

信濃毎日新聞[信毎web] 斜面

斜面
08月13日(水)
日航の元客室乗務員、青山透子さんは、ジャンボ機墜落事故で多くの同僚を失った。今は航空業界を目指す学生を教えている。授業で事故を伝える新聞報道などを資料に学生にリポートを提出させ、議論した

   ◆

ある学生は首相動静の記事に目を付けた。御巣鷹の尾根に墜落した85年8月12日、当時の中曽根康弘首相は避暑地の軽井沢から夜には帰京していた。翌日事故の報告を受けたが上野村に駆けつけるでもなく、事故対応の陣頭指揮をとった跡はうかがえない

   ◆

15日は靖国神社公式参拝で物議を醸した後人間ドックへ。17日に軽井沢に戻り水泳や散歩を楽しみ19日に帰京した。23日に英国で54人が死亡した航空機事故でサッチャー首相が静養先から帰国、現場に急行し原因究明を指示したとの記事も学生が紹介。その違いに皆が言葉を失った

   ◆

事故から29年。雨のきのう、慰霊登山が行われた。犠牲者520人の遺族には疑念がくすぶり続ける。なぜ墜落位置特定に10時間もかかったか、本当の原因は…。青山さんはその思いをくみ、授業に触れつつ事故の検証を著書「天空の星たちへ」に書いた

   ◆

墜落の2時間後には米海兵隊を乗せたヘリが現場付近の上空に到着したが、帰還を命じられ救助活動ができなかった―。事故から10年後の米軍準機関紙の報道だ。疑念が消えないまま風化させてはいけない。天上の星たちが見つめている。

フジテレビの日航機事故機内再現ドラマは一体何のために、誰のために制作したのか?

フジテレビ日航123便墜落事故の機内再現ドラマHPより(2014年8月12日18:30~20:54放送済み)

「取材を進める中で、乗員・乗客のご家族や事故に関わった方々の多くが口にされたのは、何故事故が起きてしまったのか、何故520人もの尊い命が一瞬にして奪われなければならなかったのかという、29年間全く変わらずにある思いでした。日航機墜落事故は、やはりまだ終わっていない事故なのだという印象を改めて強く持ちました(フジテレビ、演出:栩木信人)」

この命題に対して、果たして答えた内容であったのか?大きな期待を持っていた私にとって、非常に残念な内容でした。

この気持ちは、恐らく制作担当者自身が一番よく分かっているはずです。

もし、あの内容や構成が優れていると思うならば、「何のための番組だったのか」、「なぜ自分はこの事故について制作したのか」、制作者自身がもう一度問うてほしい。それは番組を作った自分を客観的に見つめ直して頂くか、己を顧みて自己否定してもらうしかないと思います。

私の大まかな番組に対する分析を書きます。

★良かった点

①今まであまり表に出ず、口を閉ざしていらした吉崎博子さんの証言に基づく再現ドラマとしては、機内の様子を知らない私たちにとって、資料的な価値は高いと考える。私の先輩方の写真や、同僚が機内で酸素マスクをつけて乗客と冷静に話をしている写真が放映されたのは重要である。

②谷口正勝さんのご遺族が、いまだに事故原因等に納得をしていないという様子が伝わってきたのは価値が高い。つまり、私がお話を聞いた遺族の方もそうであったが、事故調の報告書について、納得していない人が多いということが明確になった。

習志野第一空挺団が、翌朝の7時54分まで出動命令が出ていなかったことの証明。つまり日の出と同時に墜落現場がわかったにもかかわらず、朝日が昇って、暫くするまで動かなかったことがわかった。そして現場に降りたのが9時30分、いとも簡単に山頂に降りた実写が放映されたことである。

1985年当時、墜落場所が分からなかった。その理由として、夜間訓練もしている第一空挺団の精鋭部隊が「夜は照明がないから暗くて降りれない、周りに木々が多すぎるので無理」と国会で答弁していた。何が空挺団なのか?戦争は昼間のみか?と誰もがおかしいと思ったことを、実際に実写で、逆に証明してくれた。

④その空挺団の方が、遺体を「炭だった」と証言してくれたことは、大きな意義ある。私が取材した群馬県警察医の方は、灯油をかぶった遺体を数多く見ていたが、あの事故の時の骨まで炭になるようなことはなかった、と証言している。つまり、ジェット燃料のケロシン(灯油の一種で揮発性が高く安全性があるもの)をかぶったぐらいでは炭にならない。それを最初に遺体を見た空挺団の方が自ら証言してくれた。

以上が、この番組の良かった点である。

次に、この番組の悪かった点

①科学的データをもとに再現したボイスレコーダーから、何もわからなかったということを明確にしたにもかかわらず、意図的に事故調の発表を誇張した。つまり、米国のデンバーまで行き、専門機関に分析を依頼したが、あの3つの音の違いとそこから割り出した距離の測定の間には、圧力隔壁の位置と尾翼の両方が入っており、どちらか明確か、わかるはずもない、ということがわかった。それにもかかわらず、CGで圧力隔壁から垂直尾翼と崩壊する過程を故意的に作り、メディアによる一種のプロパガンダを実行してしまった。

例えば、国策によって戦争へ導く為、民衆を意図的に戦争へ向かわせようとする宣伝行為のようなものをプロパガンダというが、ジャーナリズム精神と対局にあるこの行為をしてしまったといわれても仕方がない。

②高浜機長の声の分析で「まずい!」という言葉を分析して出していた点はよいが、

それならば、なぜ、「まずい」と言ってから、「なんか爆発したぞ」と言い(18時24分39秒)その3秒後の18時4分42秒に、「スコーク77(緊急信号)」を発信しているのだが、これについての説明が抜け落ちている。

通常はこの緊急信号を発信する前に、機長は異常事態を把握し、その状況での対応や必要性に応じて発信をすることになっている。しかし、この瞬時に出している状況をどう判断するのか、番組では全く説明していない。遺族の疑問点のイロハのイも解決していないのである。

もし、爆発音の発生源や機体の状況が全く分からないまま迷走していた、と結論づけるのであれば、爆発音直後にスコーク77は出さない。異常音直後、客室乗務員(チーフ)に、客室の様子を確認するのが先である。しかし、コックピットはすぐにスコーク77を出した。つまり、「まずい」という言葉から考えると、恐らくその直前まで、何かを目撃し、又は何か予兆を感じていて、それでやっぱり!ということで、すぐ出したのなら、筋が通っている。番組では「まずい」の後の説明がないまま、つじつまの合わないことを無視していた。

③日赤の医師が自ら自衛隊に掛け合って、一刻も早く生存者を病院に運びたいという意思を強く自衛隊に伝えた、ということは事実として私も聞いたことである。しかし、その救助のためのヘリコプターがなかなか到着(2時間半以上も)理由を、マスコミ等のヘリが飛んでいたので困難だった、と自分たち(フジテレビ)も含めてマスコミのせいにしていた。

マスコミのヘリのせいとは、あまりに短絡的な言い方である。それはまるで、救急車やパトカーの到着が遅れたのは、新聞社の車が多くて現場に入れてもらえなかった、ということと同じである。

④あの日の気象状況のせい(南西の風や北東の風)で、風任せで群馬県上野村にたどり着いたのか?

飛行機のエンジンの右と左の出力を変えながら旋回して進路を微調整していたのに、急に風任せに変わったのか?ヨットでもあるまいし、ジェット燃料もたくさんあった。最後の墜落場所を風任せと結論づけるのか?

番組を締めくくる言葉に「運命」という言葉を使い、情緒的に終わらせている。

どこが科学的データに基づいた番組なのか、最後に運命のせいだ、とは?

 

以上、主な分析のみ掲載しました。

乗客の証言に基づいた機内再現ドラマ、とだけ宣伝すれば少しは価値があったと思いますが、遺族の疑問点も全く解決しないまま、都合の悪い部分を切り捨てて、都合良く出来ました、と誰かに花丸をつけてもらいたかったような内容でした。

マスコミの使命とは、何でしょうか。つくづく考えさせられた番組でした。

このことについては、私の知る遺族の方と情報を交換し、話し合ってみようと思っています。

 

 

 

 

 

 

マレーシア航空機狙撃事件と日航機誤射事件

『8.12日航機墜落 30回目の夏 生存者が今明かす“32分間の闘い”ボイスレコーダーの“新たな声”』 - とれたてフジテレビ

今日は8月12日、フジテレビが墜落時刻に合わせて機内の様子を再現したドラマを放送するそうです。上記が番組HPですが、非常に良い内容が書いてありますのでお読みください。ただ、実際に放送を見てから感想を書きたいと思います。

 

さて、先月マレーシア航空機狙撃事件が起きました。又マレーシア機と思いましたが、偶然にしてもあまりにも恐ろしいタイミングです。その後の新聞記事では、国際機関が入り、ロシアへの制裁措置など、透明性をもっていろいろ進んではいる様子ですが、戦闘地ゆえの困難さがあるようです。遺体の収容や遺族への引き渡しなどは、いったいどうなっているのか、心底胸が痛みます。

この2機に乗っていた人々は、行方不明(これもおかしな話ですが)や、戦闘地ということで、遺体すらきちんと遺族にわたらず、遺品も悲しみを共有する人の手に渡らず、自分の最後の想いも伝わらない、この異常さをあの世で苦しんでいるでしょう。それを想像するといたたまれません。

もし、自分だったらどうか、という想像力とリアリティーが、為政者にはないのかなあと思います。何を守りたいのか。それは単に自己都合だけの罪隠しだけではないか。誰も被害者や遺族の気持ちになって行動しているとは思えない、そんな気がします。

テレビのドラマで、この事故を知らない人々にも、少しでも乗客の最後の想いを共有してもらえれば、とは思いますが、それと事故原因解明とは別の話ですから、そこをきちんと分けて考えていきたいと思います。

****

 今日から、乗客のお一人お一人の顔を浮かべながら、その方があの飛行機に乗られてあ経緯や、新聞で公表されたプロフィールの内容を読み返してみようと思っています。そして来年30年を迎えれば・・・・と思って、ハッとしました。

今日から毎日お一人ずつ読み返してみても、終わらないのです。だって365日しかない。乗客の方は520名だったのですから、1日、一人供養しても1年以上かかってしまう・・・

 

せめて、あの日に関わった人々は何事も心の奥底にしまうのではなく、心から取り出して周りの人々に語って下さい。戦争体験と全く同じです。

それが風化を防ぐ第一歩です。皆さん、自分たちの国でこのような不条理な事件があったことを、決して忘れてはなりません。

 

 

 

上野村にあるレストランヒロの壁にあった絵を実際に見た、絵を撮影した人いませんか

皆さんにおたずねします。

上野村にレストランヒロがあり、その壁に子供の書いた古びた絵があったそうです。それが、どんな絵だったのかというと・・・・・

大きい飛行機と小さい飛行機2機が追いかけっこしている絵だったとか。

その絵を実際に見た、また写真を撮ってきた方いませんか。

それが本当かどうか、先日、読者の方が実際に行って見て来てくれました。

しかしながら、全くそんな絵はなく、今貼ってあるのは動物愛護だったそうです。

嘘だったのでしょうか。

子供たちの絵の存在を実際に見て知っている人はいませんか。

又は、自分が書いたという方はいませんか。

くれぐれも噂話ではなく、実際に見た方だけ、その写真を送って下さい。

 

大きな飛行機はJAL機でしょうか。小さな飛行機が2機編成であれば、間違いなく他国ではなく、自国の国防体制、つまり自衛隊のF4Eファントム戦闘機です。

しかし、公式記録では墜落後に、百里基地から19時05分に発進となっています。

なぜ、墜落前のJAL機の横に、追いかけっこしながら自衛隊機が飛べるのでしょうか。

だって、墜落場所は次の日の明け方までわからなかったのですよね。

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主な武装 M-61A1 20mm機関砲×1門
     空対空レーダーミサイル×4発
     空対空赤外線ミサイル×4発

もし、墜落前にF4E2機が、JAL機の横を飛んでいたとすると、まだ墜落前ですから何処に墜落したのか、最後まで見て、しっかりわかっていたことになります。

それから、もう一つ、これも元自衛隊パイロットやゼロ戦パイロット〈96歳〉の人からの情報です。

その場所で全体を撃墜することは難しくても、ジャンボジェット機の翼についている4つのエンジンのうち、一番外側のエンジンを撃って落とすと、出力が不均等になり、スパイラル状態になって自ら墜落していくとのこと。昔はそうやって敵機を落としたそうです。

その証拠が急にエンジンが落ちた場所

御巣鷹の尾根の手前にえぐれたあとがあるU字講だと聞きました。

なるほど、妙に全てのつじつまがあいます。

また、その際、パイロットは恐らく、自国の飛行機のエンジンを撃つなどという行為を、納得できるはずがなく、最後までいくら命令とはいえ、葛藤したことでしょう。

その葛藤を打ち消したのは、恐らく次のような言い聞かせではないでしょうか。

「どうせこのまま墜落するならば、少しでも犠牲者が少ない場所にしてやれ、それは別荘地の軽井沢ではだめだ。その手前の山の中である。犠牲者がこれ以上でないようにするのが君の務めだ」と言う言葉だったのではないでしょうか。

一見、なるほどと思いますが、自分たちのミスを自分たちで消すという最悪の嘘つきとなります。いい加減にしろ!という言葉ですよね。

それにしても、墜落前に横を飛んでいたとすると、中曽根首相は当時、まだ軽井沢から上野への移動中の列車の中です。また携帯電話のない時代。車掌室の電話で話をしたとしても、急にそんな決断はできにくい環境です。

そうなると、事後報告、又はやった後に了解を得た、ということになります。

 

雫石事故以降、自衛隊は事故原因を改善するだけではなく、事故が起きた際、いかにして隠すかを常日頃考えている部署があるそうです。

その人たちが、窮地になったときのために、前もって考えていたことを実行したのでしょう。

一体誰が一番悪者なのでしょうか。又情報をお寄せ下さいませ。

 

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山下徳夫元運輸大臣を偲んで

今年の1月1日に、日航123便事故当時に運輸大臣だった山下徳夫氏が94歳でお亡くなりになりました。昨日編集者からの電話で、それを知りました。

実は、私の本をお読みになり、そのご縁で、都内にて編集者と共にお会いする機会があありました。その時山下氏に、私が本を出版した際に知り得た情報をもとに、遺族から提供された機内写真や窓から見える写真、研究者が拡大してくれた写真などもお見せして、この事故の状況について説明をしました。

その際、ポケットからいつも持ち歩いているという、川上慶子ちゃんの座席ナンバーの入ったチケットの半券のコピーを取り出して、「飛行機に乗る際のお守り代わりなんだ」とおっしゃっていたのにはちょっと驚いた記憶があります。

当時はとても複雑な気持ちでしたが、今思うと政治家といえども、一人の人間であり、またお孫さん思いのおじいちゃんだったと思います。編集者と共に、またお元気なうちにお会いしましょう、と別れたのが最後となりました。

その後、私の本をじっくりと読んでくださって、今度は一緒に本を書きましょう、とか、とても良い本だ、教科書にしたい、と感想を述べて下さったとを、編集者より聞きました。

事故当時、山下氏は二階席担当だった私の先輩から「お孫さんにどうぞ」と、飛行機のプラモデルをもらい、その袋を持ったまま、事故の知らせを聞き、事故対策委員会へ急きょ向かったということでした。それは拙著にも新聞にも書いてあります。

実際にお会いして話をして、あの時どういう気持ちだったのかなあと想像力を膨らませて考えてみると、自分が乗ってきた飛行機がそのまま墜落機になったというあまりの偶然に、身も心も凍る思いだったと思います。

ただ、その事故原因があまりに想定外であった場合、それを知ったことで隠さなければならなかったという心痛も加味されて、それを追及する立場としては非常に複雑な心理であったろう、とうかがえました。

誰かを敵にして、それを叩く、という形で、いつも政治家や官僚は登場しがちです。

しかしながら、事故当時の運輸大臣にお会いしてみて思うに、このような生(なま)の人間に直接会って話を聞くと、その言葉や表情の微妙な変化から数々の苦悩を読み取ることが出来ました。

立場で話をせざるを得ない人たちは、恐らく、それを自分の立場の保持も含めて本能的に隠したいという気持ちになるのでしょう。それは人間の性です。

ただし私が一番思うことは、例えば実際にミスをしたり、実際に人を欺く行為をした人間は、いくら命令だとか、正義はこちらだ、とはいってもそれは大嘘で、単純に自分の罪を隠したいにすぎません。

そういう人間たちこそ、罪を問われ続けるべきでしょう。

この事件に真なる時効はないのですから。

 

以下産経ニュースよりコピー転載

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山下徳夫元厚相が死去 国鉄民営化に尽力

2014.1.2 15:44
死去した山下徳夫氏

死去した山下徳夫

 元自民党衆院議員で、厚相などを務めた山下徳夫(やました・とくお)氏が1日午前1時30分、老衰のため佐賀県伊万里市松島町の自宅で死去した。 94歳。佐賀県出身。葬儀・告別式は11日正午から伊万里市松島町391の1、伊万里市民センターで。喪主は妻、京子(きょうこ)さん。

 佐賀県議を経て昭和44年の衆院選で初当選し、連続10期務めた。少数派閥の旧河本派に属し、59年に第2次中曽根内閣で運輸相として初入閣。国鉄民営化や85年に起きた日航ジャンボ機の墜落事故の事後処理に尽力した。

 平成元年の第1次海部内閣で官房長官に就任したが、女性問題により約2週間で辞任に追い込まれた。宮沢内閣で厚相として再入閣した。平成12年に政界を引退した。

 

マレーシア航空機事故の事故原因はどこへ消えたのだろうか? 青山透子

4月に入り、キャンパスにも新入生、会社では新入社員が新たな風を運んでくれるようなさわやかで新鮮な毎日ですが、当然ながら1985年の123便事故後に生まれた人ばかりです。JALの事故を全く知らない人も多く、私がショックを受ける季節です。「お父さんお母さんから少しだけ聞いたことがある」というのが半分位でしょうか。

さて、実はあの事故にあったマレーシア航空370便に搭乗予定だったという学生の話を聞きました。春休みを利用してバリ島などに行き、マレーシアから中国へ入って帰る予定を直前に変えたそうです。とてもショックを受けてました。その子たち(女性数名)は日本人ですから、もし彼女たちが乗っていたならば、メディアはもっと真摯に積極的に報道し続けているでしょう。

どうしても、日本人がいるかいないがいつも報道の大きさを決めてしまいます。いなくても報道は続けるべきではないでしょうか。

 

さて、1985年に民営化をしたマレーシア航空は日本航空と一同じように以前は政府が筆頭株主でした。

マレーシア航空は乗員乗客239名が搭乗しており、また韓国のフェリー事故は約459名位が乗船していたと報道されています。

でも、皆さん、この数字、520名が犠牲者となった日航123便事故よりも下なのですよ。わかりますでしょうか。この重みを。

隣国では大統領の引責につながっているほどの対応の悪さや事故処理の報道です。

一方、1985年8月12日、日航123便事故時の中曽根首相は、520名の犠牲者を前にして、半官半民の航空会社の事故でありながら、隣の軽井沢でゴルフやテニス、水泳で忙しく、8月、9月と一度も事故現場に足を踏み入れませんでした。

それを許して、それを報道しなかったのが、残念ながらこの私たちの国なのです。

年代が違うといえばそれまでですが、いくら年代と言っても29年前。

戦争中でもあるまいし、この国民性を私たちは自分を含めて客観的に見直す時期に

来ているのではないでしょうか。

なぜそのような愚かなマネを中曽根氏はしたのでしょうか。

なぜ、それを報道せずに、記者たちは許したのでしょうか。

私は、これはマレーシア航空機事故にもつながると思っています。

ある新聞では、マレーシアの警察当局が「この事故原因は一生見つからないかもしれませんね」と言っていたことを書いていました。

日航機事故の群馬県警もそのような雰囲気で、さらに裁判で、日航が不起訴となった際も、担当検事が「私もこんな資料で事故原因などわからない」と叫んだ記録が出てきます。

これらは、もし事故原因を作ったのが軍事関係者だとすると、全てが解決出来ますね。米国のTWAですら、今頃事故原因が違っていたという報道が出てきました。

軍事費は膨大で、利益も多く、数多くの企業が参画して原発同様、人とお金の問題や地域問題など全てがどうしようもないほど絡み合っています。

国家機密も幅を利かせます。ミスしても軍が隠ぺいするのは民間より簡単でしょう。

例えば、上官が人道的におかしな命令を出した場合、ドイツなど欧米諸国では、市民オンブズマンが監視し、法律でも、「違法な命令は聞かなくてよい」と明記されています。しかし、日本の自衛隊法にはそれがありませんし、上官はみな良い人、という前提で書いてあります。

これらすべてを見直すことが、世界中から不可思議な事故原因不明の事故を防ぐ唯一の手段だと考えます。

最後に皆さんに、御巣鷹の尾根にある石碑の言葉を送ります。生の写真は私の本に入っています。この文言は、そういう角度から見ると、とても納得できます。

日航123便で死亡した520人の犠牲者一人一人がどうして死ななければならなかったか、関係するあらゆる事実を解明し、将来の安全に役立てることこそ真の供養である 2004年8月12日 航空安全国際ラリー組織委員会』

この石碑は、123便事故原因を担当した米国国家運輸安全委員会(NTSB)のジム・バーネット氏と遺族の方々が作ったものです。バーネット氏は引退後、御巣鷹の尾根に登山しました。

バーネット氏は既にお亡くなりになりました。共同通信の記事を添付しますので

ご覧ください。

ジム・バーネット氏死去 米運輸安全委員会元委員長

 ジム・バーネット氏(米運輸安全委員会=NTSB元委員長)16日のAP通信によると、15日、糖尿病の合併症のため米南部アーカンソークリントンの養護施設で死去、62歳。

 85年8月の日航ジャンボ機墜落事故の米国側調査責任者。現場となった群馬県上野村御巣鷹の尾根に建てられた石碑の碑文の作者として知られる。

 47年、同州リトルロック生まれ。ハーバード大ケネディスクール修了。82~88年に米運輸安全委員会の委員長を務めた。

 石碑は墜落事故の遺族で組織する「航空安全国際ラリー組織委員会」が94年8月に建立。再発防止を願うバーネット氏の言葉が日本語と英語で刻まれている。(ワシントン共同)

 

2010/05/17 13:34   共同通信