青山透子公式サイト 日航123便墜落の真相

日航123便墜落事件の真相を追究するー歴史的裁判開始の幕開け

公式サイトをお読み頂いた皆様へ②  青山透子より

前回の続きです。

(前回の投稿はこちらhttp://tenku123.hateblo.jp/entry/2014/03/06/182129

 

事故当日、及びその後について、上野村元村長故黒澤丈夫氏が私に語り、そして激怒していたのは、当時の総理大臣、中曽根康弘氏の行動です。

隣町の軽井沢でテニスや水泳、読書と休養ばかりして、10月まで全く上野村現場に来なかったことについて、黒澤氏は「彼も一応主計とはいえ海軍にいたこともある、何が軍人か、あの態度は何か」と、強く怒りながら私に語りました。それについて私は、本にも書いたように、学生たちと一緒に首相の一日を読みながら「なんと配慮のない人だろう、今ならば即辞任だ」と、単純に思っていました。

 

実際に、黒澤村長のお葬式では、自ら来ず、花輪も出さず、選挙区にもかかわらず、中曽根の名前は(息子も含め)一言も、一つも出ていませんでした。

 

しかし皆さん、その本当の理由は次の通りだったのです!

いざというとき、万が一、この事実が後世に知れた時への対応の為だったのです。

つまり・・・・

「自分は全く知らなかった。全く現場に行ったことがないのでわからなかった。

自分は一切関係ないし、そういう(隠ぺいの)指示をしたつもりはない自衛隊の幹部が勝手に、隠ぺいしたのであって自分は知らない、自衛隊の現場のやつが自分のミスを勝手に隠ぺいしたのであって、私は全く指示していない・・・」などと言い逃れるための巧妙な手段でわざと上野村に行かなかった、というのです。

究極の自己防衛のため、ということを、何等かの時に、言っていたのを聞いた側近(もう高齢でお亡くなりになりました)がいたそうです。つまり、まず自分を正当化するためにわざと全く上野村に顔をださず、すべてを自衛隊の幹部(ほんの数人)と現場の実行者のせいにする為だったとのことでした。

 

あまりに、私は驚きました。そんな事までして保身を考えていたとは!

この時の自衛隊最高幹部、空自・中空方面隊の松永貞昭司令官陸自・東部方面総監部の増岡鼎総監、他護衛艦まつゆきで実際にミスをした人、相馬が原陸自12偵察隊で隠ぺい隊だった人、13普通科連隊情報小隊(松本)らの名前を書き連ね、この人たちだけが悪い、と言い切ったそうです。他の関係者に、特にJAL側の人間、JALの当時の高木社長には「米軍にやられたから、本当のことが国民に知れると、米国と戦争になる」などと、恐れさせて、それを言いふらさせた様子です。

恐らく、自分の死後も自分だけは名誉が守られるように日記か手帳等に書いているとか?

軽井沢の別荘にでもあるかもしれませんね。

 

いずれにしても、さもありなんという感じです。

あくまでも、ほんの数人のずるい、そしてずるさを持った人間が、自分のミスを隠すことの恐ろしさ、さらにその上をいく、政治家のしたたかさについて私は驚いた次第です。

 

 今、急いで審議が行われている特定秘密保護法ですが実はこの日航機事故と深い関係があるそうです。中曽根氏は、自分が生きているうちに関係者が決して言わないようにするために、急いで法律を出しています。特定秘密法は198512月に中曽根が出したものなのです。さすがに当時は却下されました。

 

みんなが秘密にしてくれれば、自分は安泰ですものね。

そのくせ、いざばれたときでも、自分は自衛隊員が悪い、隠ぺい者に脅迫されていたと書いていれば、彼の名誉だけは、守られます。

逆に、特定秘密法があるから、名指しされた人は、それが自分に不利なことでも秘密保持とか言われて、言い出せなくなってしまうわけです。さらに証拠は、きれいに消去したためによけい中曽根氏の嘘を証明出来ない仕組みになっているというわけです。

なるほど、それは盲点でした。

こういう恐ろしさを持った法律であることを私たちは認識しなければなりませんね。

 

来年事故後30年、天空の星たちの怒りを鎮められるような良い世の中になってほしいと心の底から願います。

 

 

公式サイトをお読み頂いた皆様へ  青山透子より

 出版から4年間、今まで沢山の書き込みや情報提供、様々なモノをお送りくださいまして、本当に有難うございました。公式サイトを通じて、例えば、正義感溢れる自衛隊員の方、医師、看護士、上野村の人々、目撃者、当時の政治家等、実に多くの方々とお会いする機会に恵まれました。さらに50名以上の書き込み(公開、非公開も含めて)、380名以上の方々による「当時の状況、自分が見たもの、自分の経験談」を読ませて頂きました。ちょうど良い機会でしたのでそれらをまとめてみました。

当然のことながら、現場の皆さんの声としては「一生懸命救助したかった、一生懸命探したかった、命をもっと多く救いたかった」という人たちです。そしてあの日、あの夜、なぜ?こんなことを?という多くの疑問と苦悩の声です。

 

ちょっと皆様とご一緒にその「なぜ」について、考えてみましょう。

① 

災害派遣待機命令が発令されたが、その後出動ではなく中止命令が出たのはなぜか

 

812日、夜23時頃、一番先に捜索のため到着した機動隊員32名の案内を頼まれた地元民たちに対して、道案内を頼んでおきながら機動隊員から

「その場所は違う、こっちだ」と根拠のない主張をされた。

墜落現場はスゲノ沢だと言うと

「いいやそこではない、中ノ沢だ、上官の命令だ」と強く言われた。

人にものを頼んでおきながら命令とはどういうことか?

なぜ地元の土地に詳しい人の意見をわざと無視したのか?

 

③ 

なぜ一番先に到着した機動隊員は、わざと足が遅く、ゆっくり歩くのか、

おかげで、倍の時間がかかり、夜明けまで墜落現場にたどり着けなかった

 

夜中、ヘリが墜落現場上空にずっとホバリングして、モノの上げ下げをしていたが、何をそんなに急いで上げ下げしていたのか 

 

後からの幹部の発表では、一機たりとも危なくてヘリを飛ばしていないというが、

事故当夜、私たちが目撃した墜落現場上空にいた多数のヘリは、亡霊か?

 

自衛隊ヘリの合図を頼りに墜落現場まで行けると歩いたら、

結局全く違った場所に連れていかれたのはなぜか

 

自衛隊による墜落現場特定が遅くなったことについて、

山下運輸大臣自衛隊幹部が

「夜間用照明がなかった」とか「険しい山に仰天した、危ないから」とか、

夜に救助出来なかった理由をテレビや雑誌で反論した。

しかし、敵の侵略や戦闘は夜行うもので、その為に山奥で過酷な訓練をしてきた。

夜にヘリを出せないならば、いつ自衛するのか?

自分たちは夜に十分動けるための訓練を行ってきたのだから、プロとしての自衛官

を馬鹿にするような発言するとは情けない。それでも幹部か?

 

なぜ墜落場所を地元民や黒澤村長が伝えても報道は聞き入れなかったのか

特に13日早朝、地元では当然御巣鷹の尾根とわかっているのに、まだNHKでは、小倉山と報道し続けていて、呆れた地元民が、NHKの記者を怒鳴りつけた

 

なぜ一生懸命生存者を救助したのに、山頂に4時間近く生存者が放置されたのか

 

なぜ生存者を収容したヘリで、5分もかからない救急病院に行くのに、無線が故障と

言って30分以上、上空を旋回し続けたのか

 

⑪ 

4人も救助したと美談になっていたが、遺体状況からみて、つい先ほどまで生存して

いたと思われる人たちが100名ぐらいはいたはずである

 

自分はゼロ戦の指導教官だったが、戦時中でさえ場所は特定できた。

あの程度の山でましてや、1985年に墜落場所を測定出来ないわけがない。

パイロットを馬鹿にするな

 

 

以上、主なものだけですが、もっともっとたくさんありました。

 

なお重要な内容について、本人の了解を得たものについては航空関係者や研究者、関心のある政治家、そして一部の遺族の方に、いろいろなつながりを通じて、すでに書類や直接お会いして全てお話をし、お伝えしました。

 

その中で実はもう一つ、公人としての振る舞いで、ビックリしたことがあります。公人であった時期については公にするのが当然ですので、ここで皆さんとその情報を共有したいと思います。

 

 

続きははた明日・・・。

ごあいさつ

このブログは1985年に起きた日航123便墜落事故を当時日本航空スチュワーデスとして勤務していた著者・青山透子が、事故の真相を追い求めて綴ったノンフィクション「日航123便あの日の記憶 天空の星たちへ」(マガジンランド刊)の出版を機に開設した公式サイトをリニューアルしたブログです。

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これからはこのブログで随時情報を発信していきたいと思いますので、皆様からのご意見、ご感想および当時を知る方からの情報、どんなに小さなことでも構いませんので、お寄せください。