青山透子公式サイト 日航123便墜落の真相

日航123便墜落事件の真相を追究するー歴史的裁判開始の幕開け

そして法廷へ―来て頂く前に中曽根康弘氏ご逝去 青山透子

11月29日にお亡くなりになった中曽根康弘氏は、101歳という大変ご立派な人生で大往生であったと報道各社が伝えている。局を超えて大親友の渡邊恒雄氏が出演して褒めたたえていらした。頭もしっかりされていたそうなので、法廷に来ていただくには十分だと思っていたのに大変残念である。

それにしても、皆さんも気づいていると思うが、80年代を伝える画面には、1985年8月12日の日航機墜落報道は出てこない。民放は忖度の協定を結んだように横一列で日航の文字すらなかった。これは、「★☆の貸し借り」かどうかわからないが、ワイ新聞のドンが采配を振るい、ここはひとつ、中曽根イコール日航イコール御巣鷹という連想だけは避けたい、という意向を酌んだのだろうと聞いた。客観性と良心を取り戻しつつあるNHKのみが、御巣鷹の尾根の写真をちらりとテレビで出した。他の民放は当時の80年代の紹介で、1982年に33人の死者を出したホテルニュージャパンの火災は出しても、1985年の520人が亡くなった日航機墜落は出さなかった。1985年についても、いきなり日付が飛んで、8月16日の公式参拝は報道しても、その前の1985年8月12日の墜落報道は一切なかった。墜落現場に行かず夏休み中軽井沢でプールとテニスと読書三昧の首相の1日は報道しなかった。その代わり、1985年夏休み(つまり墜落の夏)に、嬉々としてプールで泳ぐ中曽根氏を写していたのだが、一山向こうの墜落現場で遺体捜索中にこの表情とは大変驚いた。これは証拠写真の一つといえよう。

1987年11月の日本航空民営化にもかなり力を注がれていたが、よほど日航という文字が出てくることを避けたかったのか、これも報道されなかった。

このように、物事は隠しすぎると、逆にばれる。故意的に外しすぎると、逆に不自然なのである。世界最大の単独機大事件をわざと外しているのが見え見えであり、それが「やっぱり、隠蔽が事実であり、後ろめたいのだ」と、誰もがわかってしまったのである。

読者や知り合い等、寄せられた感想の中に、つぎのようなものもあった。

若手報道関係者「中曽根元首相の在任中の世相として、80年代の重大事件をニュージャパンの次に当たり前に出そうと思っていた日航機の羽田沖事故や85年の御巣鷹の尾根事故報道写真は出すなと言われ、今まで疑問にも思っていなかったけど、逆にそれってやっぱり本当なんだと思った。上の指示だからね。ナ〇ツ〇ルートと呼ぶ当時の若手記者とか、軽井沢で美味しい思いをした人たちの残ペイだろうね。こういう老害は定年していつまでも会社に残らずさっさと退職してほしい」

本物の政治家ならばせめて1985年8月12日の次の日でも墜落現場へ急行するのが当たり前だろう。その後もすぐに自衛隊のヘリで、御巣鷹の尾根を通りすぎて、つくば万博に見学に行っている。520人の命を何だとおもっているのか。さらに数か月も行かず、隣町の軽井沢で遊んでいたご自分を恥じてほしかった。ご自分の至らなさを遺族や国民に謝罪してしかるべきである。こういった事実は永遠に消せないのである。

今頃、520人があの世の法廷で厳しく尋問してくれているだろう。

裁判官は上野村元村長の故黒澤丈夫氏だろう。海軍少佐でゼロ式戦闘機搭乗員だった黒澤村長の前で、何を語れるのか?

中曽根さんの宴会写真では、海軍の軍服を着たり、飛行帽と白いマフラーという戦闘機乗りのかっこをして歌う姿が出ていた。

鶴田浩二でもあるまいし、パイロットでもなかった中曽根氏のあのような写真などやめてほしい、という声が聞こえてきた。

私の曾祖父もよく存じ上げている紀州藩士の家に生まれた慶應義塾元塾長で、現在の上皇の教育掛で美智子様との縁談のまとめ役だった小泉信三氏は、ご子息を早くに戦争で亡くした。そのご子息、小泉信吉氏も中曽根氏と同じ海軍主計だったこともあって、小泉信三氏は中曽根氏のようなそういった軍服のパーフォーマンスを大変嫌っていた。

本物ではない人間が陥りやすいパフォーマンスだったのだろう。

ゴーグルまでつけてマガイモノの飛行機乗り姿は、その生死を賭けた人の誇りを傷つけていることを知らぬままあの世に逝ったのだろう。

合掌