「日航123便あの日の記憶 天空の星たちへ」公式ブログ

1985年に起きた日航123便墜落事故を、当時日本航空スチュワーデスとして勤務していた著者・青山透子が、事故の真相を追い求めて綴ったノンフィクション

山下徳夫元運輸大臣を偲んで

今年の1月1日に、日航123便事故当時に運輸大臣だった山下徳夫氏が94歳でお亡くなりになりました。昨日編集者からの電話で、それを知りました。

実は、私の本をお読みになり、そのご縁で、都内にて編集者と共にお会いする機会があありました。その時山下氏に、私が本を出版した際に知り得た情報をもとに、遺族から提供された機内写真や窓から見える写真、研究者が拡大してくれた写真などもお見せして、この事故の状況について説明をしました。

その際、ポケットからいつも持ち歩いているという、川上慶子ちゃんの座席ナンバーの入ったチケットの半券のコピーを取り出して、「飛行機に乗る際のお守り代わりなんだ」とおっしゃっていたのにはちょっと驚いた記憶があります。

当時はとても複雑な気持ちでしたが、今思うと政治家といえども、一人の人間であり、またお孫さん思いのおじいちゃんだったと思います。編集者と共に、またお元気なうちにお会いしましょう、と別れたのが最後となりました。

その後、私の本をじっくりと読んでくださって、今度は一緒に本を書きましょう、とか、とても良い本だ、教科書にしたい、と感想を述べて下さったとを、編集者より聞きました。

事故当時、山下氏は二階席担当だった私の先輩から「お孫さんにどうぞ」と、飛行機のプラモデルをもらい、その袋を持ったまま、事故の知らせを聞き、事故対策委員会へ急きょ向かったということでした。それは拙著にも新聞にも書いてあります。

実際にお会いして話をして、あの時どういう気持ちだったのかなあと想像力を膨らませて考えてみると、自分が乗ってきた飛行機がそのまま墜落機になったというあまりの偶然に、身も心も凍る思いだったと思います。

ただ、その事故原因があまりに想定外であった場合、それを知ったことで隠さなければならなかったという心痛も加味されて、それを追及する立場としては非常に複雑な心理であったろう、とうかがえました。

誰かを敵にして、それを叩く、という形で、いつも政治家や官僚は登場しがちです。

しかしながら、事故当時の運輸大臣にお会いしてみて思うに、このような生(なま)の人間に直接会って話を聞くと、その言葉や表情の微妙な変化から数々の苦悩を読み取ることが出来ました。

立場で話をせざるを得ない人たちは、恐らく、それを自分の立場の保持も含めて本能的に隠したいという気持ちになるのでしょう。それは人間の性です。

ただし私が一番思うことは、例えば実際にミスをしたり、実際に人を欺く行為をした人間は、いくら命令だとか、正義はこちらだ、とはいってもそれは大嘘で、単純に自分の罪を隠したいにすぎません。

そういう人間たちこそ、罪を問われ続けるべきでしょう。

この事件に真なる時効はないのですから。

 

以下産経ニュースよりコピー転載

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山下徳夫元厚相が死去 国鉄民営化に尽力

2014.1.2 15:44
死去した山下徳夫氏

死去した山下徳夫

 元自民党衆院議員で、厚相などを務めた山下徳夫(やました・とくお)氏が1日午前1時30分、老衰のため佐賀県伊万里市松島町の自宅で死去した。 94歳。佐賀県出身。葬儀・告別式は11日正午から伊万里市松島町391の1、伊万里市民センターで。喪主は妻、京子(きょうこ)さん。

 佐賀県議を経て昭和44年の衆院選で初当選し、連続10期務めた。少数派閥の旧河本派に属し、59年に第2次中曽根内閣で運輸相として初入閣。国鉄民営化や85年に起きた日航ジャンボ機の墜落事故の事後処理に尽力した。

 平成元年の第1次海部内閣で官房長官に就任したが、女性問題により約2週間で辞任に追い込まれた。宮沢内閣で厚相として再入閣した。平成12年に政界を引退した。