「日航123便墜落―遺物は真相を語る・天空の星たちへ」公式ブログ

1985年に起きた日航123便墜落事故を、当時日本航空スチュワーデスとして勤務していた著者・青山透子が、事故の真相を追い求めて綴ったノンフィクション

レッテル張りとご遺族の苦悩  青山透子

良識ある10万人の読者の皆様へ 

32年間、世間の風が事故原因究明に向かないよう、不都合な事実が出るとすぐレッテルを張ってプロパガンダ、つまり特定の意図をもってそちら側に向かないよう誘導するやり方で、再調査がしたくても出来ないような風潮を作り上げてきた人たちがいます。そういう人間は、自分たちの不都合の為だということを言わず「陰謀説を出すとは遺族を苦しめることだ」「感情論に過ぎない」「情緒的で証拠がない」という言葉で事実を否定し、卑怯な手段を講じてきたと思われることが多々あります。いくらごまかしても、その人自身が犯した罪が消えることはないのに、その理由を遺族のためだからとは茶番です。

私と同じように毎日国会図書館に通い、発表された32年間の資料の経糸と横糸を結び付けて考えていくと、誰もが普通におかしいと気づきます。批判している人達はやってみてください。私もそうだったように、だんだんと疑問と持ち、その矛盾に気づくはずです。

それをせずに、批判だけするということは何等かの作為的な悪意を持った人と言っても過言ではないでしょう。

 不都合な事実を抱えた当時の関係者たちは、常にご遺族を苦しめてきたのです。私の所に寄せられたその生の声をお聞かせします。

 

「事故遺族として、520名の犠牲者が、どのような理由、原因で殺されたのか真実を明らかにして、それを犠牲者の霊前に供えるために地道に活動をしてきました。

そのためには 国民の皆様方の理解と応援が必要だと即ち世論の喚起、応援が必要なのです」

 

良識ある読者の皆さん、どうぞ味方になって下さい 

事故原因再調査を願う遺族が、たった1人でもいる限り、私たちは常に彼らの味方にならなければいけないのです。

心からの応援を宜しくお願いします。

なお、まだまだたくさんの声が届いておりますので、その一部を紹介します。

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「叔父は元群馬県警のOBですが、当初は本屋に青山さんの本があったら、隠すために昔の同僚と一緒に買い上げたと聞きました。今さら変ですよね。ネット社会なのに。叔父も本当のことはわかっているようです」

 

「杉江という人のぺらぺらの本、ペラペラめくってみたけれど、過去の本の焼き直しばかりです。昔の古いジャンボ機にたくさん乗ったから、ボーイングから表彰されたというのが自慢の人ですね。だから不利な人達を動員して買わせたら数も見込めると出版社も思ったのでしょう。青山さんの本が10万部超えて、隠す側に余程焦りがある。立場の悪い側の人間は、このまま事が進むことに居ても立ってもいられなくて杉江に書かせたのでしょう。火消本どころか結果的に火に油を注ぐ役割、というところでしょうか。

メディア関係者」

 

「慶応と産経について、誤解があるようなので・・・

・場違い突然で失礼します。産経新聞と時事新報は合併しましたが別物です。慶應法学部教授だった板倉卓造主筆兼社長までが本当の時事新報。板倉は、その主義は異なっても社会主義者大杉栄を理不尽に虐殺した憲兵隊の仕業を暴いて追及し、憲兵隊の脅迫を受けたものの怯まなかった(甘粕事件)凄い人でした。まるで、青山透子さんみたいです。

なお、慶応の本流ならば上記のことは皆さん知っていることで、今のフジサンケイとは全く無関係ですからご注意下さい。だから、最近の本の傾向やサンケイ新聞のへんな保守系論調に迷惑しています。

福澤諭吉の弟子」

 

「青山さん 本当に感服しました。今の世の中、まれにみる良著です。あっぱれ応援しています。

ネット上で貴殿を批判する人は、そのほとんどは一般の読者ではない。すなわち当時の自衛隊関係者や防衛庁運輸省、外務省等々、事故調査委員関係者?これは、ちょっと発信元がばれたら大変だから無視だろう。それから、そこからお金をもらっている人や世話になった人、武器開発に立ち会った技術者たちの所属する会社(〇菱系、〇立系、〇芝系)、上野村御巣鷹の尾根の直下に急にダムを造らされた〇電(神流川発電所)、群馬県警等々かなあ。あながち間違っていないと思う。意地になって書いているのは数人でしょう。なりすましも多いからねえ。特に50代ぐらいの背の高い、がっちりとして体格のよい男性とか、貴女の本に参考文献として載せてもらえなかった最近の変な本で名前が出ている人とか、でしょうね。

海外も含め、政府関係者や内外に幅広い交友関係を持つ貴殿なら、損得ではなく友人として、またご先祖さんからの長いお付き合いの仲間として、ありとあらゆる人が支えるでしょう。年寄になればこわいもんなしですから。

花咲じいさんより(これは孫に書いてもらいました)」

 

「貴女の本を読まずにネット上で批判してすみませんでした。あれから、心を入れ替えました。ヘイトスピーチも、お金に目がくらむことも、インサイダーも、原発推進も、全て悪い友達に誘惑されたことです。上から目線の愚かな人たちです。

毎日、好きなパスタを食べながらも、ITUMOHITORIで心にわだかまりもあります。

あるベルギー人からの手紙」

 

「杉江弘は8月13日に前日の全日空の事故があってフジテレビの昼バラに出ていたよ。そこで派手に「日航123便は減圧があってクルーは朦朧としていた」とぶち上げた。本を急いで出したのは、赤恥かいた自意識過剰の苦しい言い訳と腹いせだよ。これであの人もおわりだね。」

 

「貴方のことを全く知らないひとが、勝手にでっちあげのプロフィールやら、すっちーだから〇中の元カノとか、あほなことを書いていますが、うそ書いたひとを特定して表に引っ張り出し、名誉棄損で訴えてやりますか?この分野は得意です。いつでも力になります」

 

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繰り返しますが、どうぞ皆様、再調査を願うご遺族の味方になって下さい。

人は共感力があるからこそ、人として相手を思いやり、理解を深め、信頼関係を築いていけるのです。私はペンを握り文章を書く者として、ノンフィクションの原点として、それが不可欠だと思っています。

心からの応援をどうぞ宜しくお願いします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

便乗商法本について   青山透子です

あるご遺族から、便乗商法まがいの品格のない本が出回っているとの情報が寄せられました。そのご遺族は、真摯に事故原因を見つめ直そうと再調査を願う人を陥れるために、いつも御用コメンテーターなどが出てきて事故調の報告を擁護してそれがすべて正しいと錯覚させる、と語っていました。

もう一度お伝えしますが、事故調査報告書のデータ表示、書いた内容そのものの信憑性を疑ったのは群馬県前橋地検で、担当検事がそれについて遺族会の前で明言しています。その結果不起訴となったのです。

つまり、裁判にならなかったために、事故調査委員以外の人間がブラックボックス(FDR,CVR)の中をのぞいたわけではないし、正式に情報公開されていないのです。従って、彼らが書いているものをそのまま鵜呑みにしていること、それ自体がおかしいのでは、ということから、そのズレを、複数の目撃者から指摘して追及したのが本著です。

この御用コメンテーターが生のデータを直接見れるはずもなく、ましてや杉江氏は御巣鷹にも行っていないのでしょう。

 さらに、ご遺族にインタビューしたわけでもない人間にとやかく言われる筋合いはありません。

この点について、ご遺族からの怒りの声を載せさせて頂きます。これはご本人の了解を得て一部を掲載します。

「元日航パイロット::杉江 弘氏の「JAL123便墜落事故」宝島社、2017.12.22 1,500円 の本が出版されました。(買うまでもない本で)立ち読みですが、貴方の「青山本」は妄想だと決めつけています。パイロットは技術者でなく、運転手です。事故調査には全くの素人で、これは日航と話をする際、出て来るパイロットと議論すると直ぐに分かります。その他「謀略説」は100%有り得ないとか再発防止策が急がれるとか、全く漫談です。しかも、事故の真実は明解に特定していません。事故原因が分からずに再発防止とは理解不能です。目撃証言の重要性を杉江氏、日航、事故調は無視しています」

 

表紙の色トーンも文字の配置も私の本と似せてあるそうで、間違って手に取って買ってもらおうという魂胆が見え見えの便乗商法まがいに驚いたとのことでした。昔、同じ会社で、ご一緒にフライトをしたかもしれない(かなり年代が違いますが)元キャプテンともあろう方が、そういう本を書いたとは、がっかりしました。

他の記者さんやジャーナリスト、元機長の方々は、先ず出版社にご連絡をいただき、直接お会いして未公開資料などもお見せし、話をするのが通常です。同じ会社にいた者であればより一層自然な流れです。さらにペンを握るものとしての道理であり、筋道でしょう。

それをいきなり、暗闇の後ろから出てくるようなやり方で出版されたことに、品のない振る舞いを感じざるを得ません。それともその裏で何か〇馬方面からの取引やら、魂胆やら、または便乗売りを狙ったのでしょうか。

 

慶応のOBからも次のような手紙が届いておりますので、その一部をご紹介します。

「この杉江とかいうジイさん(おっと失礼)、四年制大学を出た飛行機乗りという昔を引きずって、いまだ有頂天なのだろう。慶応卒が本当なら団塊だろうから法学部の永沢塾長時代。操縦桿をペンに握り変えてみたものの「ペンが剣力(権力)に屈した」輩ゆえ、永沢塾長も福澤先生も嘆いておいでだろう。

古い塾員より」

 「青山さんのご先祖は福澤先生の下で創立時に塾の教鞭をとられていたんですね。偶然に福澤文庫で見つけました。ところで、天皇陛下の教育係だった小泉信三塾長、その息子さんの信吉さんは海軍主計でしたが戦死されました。ご存じでしたか? 百歳になる群馬県高崎の主計お大尽も死ぬ前に全部喋ればいいのにね。

慶應義塾塾生」

 

日航関係者からの声も書いておきます。

「青山さんの本、感銘しました。本に書かれた事故当時の日航上層部の動きは事実です。私もはっきり「外部犯行で米軍」と言われて口留めされました。仕事をスムーズに運ぶために、最低限の人間は知っている必要があったので、当分その後の部員にも引き継ぎました。出所は判りませんが、今考えれば方便に米軍とした方が諦めの心情から、説得と納得に収まりが良かったのでしょう。この事が世に出るのはもっと先と思っていました。元社員として自らの責任を感じます。拝 

32年経ち、時効も過ぎ、今さら隠す必要などこれっぽっちもない。これもぜひ出してください。

日航広報部OB」

 

最後に、日本ペンクラブ会長の吉岡忍氏による拙著への書評の一部をご紹介します。

この言葉に私自身、身が引き締まる思いでした。

「(略)長い歳月、闇のなかの事実を探った著者の執念にどう立ち向かうか。読者の洞察力が試される本である」

 

皆様の洞察力に心から期待します。

 

 

 

 

10万部突破!応援を有難うございます 

管理人です。

ここに10万部を突破しましたことをご報告します。

皆様からの心のこもったお手紙、お葉書、毎週たくさん届いています。

「都内の図書館の順番待ち番号が123人で驚いた」「これはまれにみる凄いベストセラーだと司書さんが驚いていた」という報告もありまして図書館での反響も大きいようです。順番待ち人数があまりに多いので購入しました、というお手紙もありました。

ちなみにですが、重版が17刷となりまして、初刷本での小さな単純ミスや航空ファンからのご意見、さらに読者の皆様から寄せられたご意見なども参考にして、それぞれの重版にて直している部分があります。図書館での本と現在本屋さんにある本とほんのちょっと違う部分があるんですよ。是非比較して、そんな点も楽しみながらお読みください。

ノンフィクション部門でこの反響は近年珍しい限りです。河出書房新社宛に届きましたお手紙やご質問、激励、ご遺族からのお手紙や出版社への感謝の声等は全て青山氏が目を通しています。なお、ご住所を書いて頂きました方々には青山氏より返事を送らせて頂きました。皆様の温かいお心とお言葉に御礼申し上げます。

また、便乗商法のような本もあるとの情報がきています。くれぐれもご注意の程、宜しくお願いします。

 

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皆さんの「あの日の想い」をしっかりと受け止めました~感謝を込めて 青山透子

 

ご無沙汰しておりましたが、今年この本を通じて出会えた読者の皆様にお返事を書いておりまして大変失礼しました。

北は北海道から沖縄まで、本当に有難うございました。北海道新聞をはじめ、西日本新聞、上毛新聞、ミニコミ誌等の多数の情報誌、週刊ポスト日刊ゲンダイ、AERA、月刊エアライン、公明新聞週刊実話、女性会議関連の新聞等、実に書き切れないほど多くの皆様に拙著をご紹介していただきましたことに深く感謝申し上げます。

実際にお会いしたジャーナリスト、新聞記者、大学教員、弁護士、メディア関係の多くの皆様に、本には掲載されていない未公開資料もお見せしてお話することが出来ましたのも、大変嬉しい限りです。

特に日本ペンクラブ会長の吉岡忍氏に書いて頂きました書評では、読み手としての読者側に対する深い示唆が込められており、言葉の一つひとつに重みがありました。吉岡氏が落合証言を書かれた「墜落の夏〈1987年)」と一本の線でつながったような気がいたしました。本当にありがたく思っております。

また、私の曾祖父が福沢諭吉先生の元で塾員として学び、慶應義塾の英語教師となったご縁もあって、前著のあとがきにも書きましたが福澤研究センターや塾OB等、関係者の皆様のペンのマークが物語るような正々堂々とした応援を有難うございました。

思えば、今年の初め、全く出版のめどが立たない日々でした。前著の編集者の退職などで33回忌に向けた企画が流れ、膨大な資料やインタビューもこの世の中に出すことは出来ないのだろうか、と悶々とした日々でした。ところが4月、奇跡的な事が起きまして、河出書房新社にて次々とこの本が生まれるための準備が始まり、締め切りまで寝ずに書き続け、見本本が出来たのが7月20日、書店には24日に並びました。何も広告をしていないにもかかわらず、1週間で重版が決まりました。そして今月迎えた10万部です。520名の皆様が導いてくれたとしか思えません。未来への提言として、この本が持つ特別な使命を感じながら、次世代へつないでいきたいと思います。今年出会えた皆様に心から感謝いたします。

 

 

母校の東大にてゲスト講義をしてきました 青山透子

東大で25年間も続いている有名な弁護士の先生方によるゼミのゲスト講師として、拙著をもとにして、法と人権と社会の有り方とは何か、について講義をしてきました。

学生の皆さんは将来法律系やメディアなどに就職するであろう非常に若い人たちです。32年前は父母が小学生から中学生、高校生ぐらいでしょう。彼らは当然生まれる気配すらないわけです。もし、事故機にお父さんやお母さんのどちらかが搭乗されていたら、彼らはこの世にいないのです。そんな昔の話をリアリティをもって共感していただけれるかどうか心配でした。

そこでグループ討議の際、私が持参した32年前の古びた茶色の新聞各紙を配り、その一面トップに出ている「日航機墜落」という文字、カタカナで書かれた搭乗者名簿、身元確認の困難さ、医師たちの証言、私がインタビューした人達の名前が出ている上野村消防団等の記事などを回してみてもらいました。

それにしても当時の世相と今ではあまりに違いすぎるため、どうやってあの当時の雰囲気を伝えたらよいのだろうか、話がちゃんと伝わっているかどうか、地下鉄サリン事件も知らない世代ですので単に風化を防ぐというよりは、伝え教えていくむずかしさも感じました。

人権についても個人対個人や企業対個人の場合よりも、国家対個人の場合、国側の組織的な様々な圧力や国側の隠ぺいのしやすさも考えなければなりません。法律では当時、情報公開法成立、施行前の時期で、一トンもの日航関連の資料や証拠物等を運輸省事故調査委員会は焼却して廃棄しました。あとからそれを知った遺族の怒りは相当なものでした。刑事裁判もなく、民事訴訟も示談が殆どだったあの事件について、後から検証することすら出来ない状態にされてしまったのです。半官半民だった日航と国の癒着、防衛庁日米安保問題、空の安全保障から深く考察し、時代的背景も考えながら、この事件を解明しなければならない、その重要性に気づいてほしいなあと心から願って話を終えました。

安易なネット情報や不確実なコメントに影響されることがないよう、パワーポイントを使い、関係者の音声も出し、医師などから学術用に使ってよいと特別に許可を得た一般には一切出ていない写真や確実な情報と裏の取れた内容と真事実、メディアの役割と報道の中身、そこから推定される仮説も提示して、皆さんに考えてもらうようにしました。きっと、ビックリするようなことも多かった思います。しかし、彼らの気づきが、今までの様々な政治的汚点や国家的失敗を克服することにつながり、「小さな目は見た」からの情報が「未来の目は見た」に繋がるのです。私も皆さんと共に貴重な時間を過ごすことが出来ました。先生方に深く感謝いたします。

大きな教室にぎっしりでしたが、皆さんと出会えて本当に良かったです。そして、一人ひとりの心の中に何かが残り、何時か誰かがこの事件を解明してくれることを願っています。

 

管理人からのお知らせ

何時もご覧いただきまして有難うございます。

講演、講義は大学等の学術に限らせて頂いております。

なお、番組制作の資料提供や取材などについてのご依頼ですが、こちらの書き込みコメント欄にご依頼頂きましても、ご指定へ直接メールをすることは致しておりません。

恐れ入りますが、河出書房新社へ電話にてご連絡を宜しくお願いします。そのあと、担当者より青山透子へ引き継ぎとなります。何卒宜しくお願い致します

 

 

 

1980年代のスチュワーデス秘話 青山透子

昨晩のテレビ東京の番組「あの事件の知らなかったコトSP」はいかがでしたか。このサイトに訪れた皆様で、当時を思い出しながら見て頂いた方も多かったと思います。

最初、客室内でのコックピットとのフライト前ミーティングの時、前回書いたアロケーションチャートが紙一枚、ちゃんと出てきましたね。ボーディングミュージックもリチャード・クレーダーマンの「渚のアデリーヌ」でした。ディレクターの方がメモしていたのを思い出して嬉しかったです。

確かに今までの番組では、客室乗務員に焦点を当てたものはなかったという事で、その点は大変深い意味のある番組だったと思います。資料提供に名前と本名も入れて頂きましたが、制作者のご苦労も多々あっただろうと推察しながら見ていました。画面に出た当時の先輩の姿、制服姿の写真、懐かしいHさんのお顔など、33回忌として番組が放映されたことは本当に良かったと思いました。

ただ、前から聞いていましたが、再調査を言及するような内容ではなく、それに加えて遺族の小川さんの写真が、あまり意図がつかめない写真で唐突にそれも風景の1枚だけ、というのはちょっと情けなかったですね。

それにしても、今までなかった視点、つまり墜落機の日航の社員としての当事者のみならず、乗客と生死を共にした20代から30代の若い彼女たちの人生に思いをはせ、最後の瞬間をも、プライベートを超えた職業意識で目の前の苦難や状況を克服すべく、精一杯努力をしたのだ、という事実をあの番組を通じて皆様が重く受け止めてほしいと心から願います。

昨日はもう一つビックリした事、上野村へのヘリ墜落でした。このタイミングで?と大変驚きました。ご冥福をお祈り申し上げます。

 

さて、ちょっと当時の髪型ですが、訓練所にいる間、指定された日に銀座の資生堂美容室に行き、日航客室乗務員指定髪型という写真を見せられ、どんなロングヘア―でもバッサリと切られました。訓練中から新人にかけては、会社の指定する5つのパターンだけが許されていたのです。あの番組の客室乗務員は殆どの人はカツラだと思いますが、当時は今のように後ろに結ぶシニヨンではありませんでした。どちらかというと私の本に出ているような、横サイドを流すセミロングが主流で、シニヨンをしている人はパーサークラスの人だけでした。新人がシニヨンをしたら大変です。先輩に一言「あら、その髪型、10年早いんじゃない」と言われたものです。さらに番組の中で、赤田さん(ママさんスチュワーデス)が後ろにカーラーを巻いて、ギャレーで後輩に指摘されている場面もありましたが、あれは前髪(うしろではなく)を気にして、前髪だけカーラーを巻いて、ボーディング前に取る、ということをしていた人がいたエピソードから、演出したのでしょう。

カーラーで前髪を巻いていたパーサーに聞いた時がありますが、その理由は制帽でつぶれてしまうので、とのことで、これも新人はNGです。

髪型一つとっても80年代と今では違いますね。

それから、墜落直前まで赤い手帳に脱出アナウンスを書いていた、そして乗客の皆さんに安心感を持ってもらうように、地上と交信はつながっております、と最後のアナウンスをした対馬さん。私にとっては旧姓のMさん、という名前のほうがしっくりきます。高熱だったにもかかわらず、新婚旅行から戻って名前が変わって初のフライトでした。ネームプレートもまだ変わっていなかったそうです。新婚旅行は確か福島へ行ったと聞きました。客室乗務員は海外ばかり行っているので、結構近場で新婚旅行の人も多かった時代です。対馬さんのご主人は、刑事ドラマに出ていた俳優さんで、現在どうしていらっしゃるのかなあと思っていましたが、風の便りでは、その後持病が悪化してしまってお亡くなりになったそうです。きっとあの世で対馬さんと仲良くテレビを見ていたかもしれませんね。

 

 

 

本日8日(水)テレビ東京「あの事件の知らなかったコトSP」をご覧ください 青山透子

皆様、本日8日の夜、21時からテレビ東京系全国放映「あの事件の知らなかったコトSP」をぜひご覧になってください。その番組の中で、1985年日航123便(JA8119号機)に乗務していた客室乗務員に焦点を当てた再現ドラマがあります。

私の前著「天空の星たちへ~日航123便あの日の記憶」を読んで連絡を頂いたディレクターにお会いしたのが今年の春でした。当時のスチュワーデス(昔の呼び名ですね)に焦点を当てた番組は初めてだそうです。

ディレクターにお会いした時はちょうど現在の本の執筆中でしたから、当時の資料や私が123便に何度も乗務した記録などが手元にありましたので、それをお見せしてあの日について、ディレクターの方にも臨場感を持ってもらえるように話をしました。また乗務していた客室乗務員のエピソードを書いた追悼文集や、アロケーションチャート(飛行機内で仕事の分担とエマージェンシー担当区域図などを書いた紙)もお見せしました。

あの日の担当区域については原在の本の第一章に図解していますし、先輩方のエピソードも前著同様に現在の本にもその一部を書いておりますのでご覧ください。

なお、アロケーションチャートには、社員番号や名前なども書いてあり、必ず出発前には、この便に誰が乗務しているとすぐにわかるように、当直デスクに一枚提出していきました。何かあった場合の連絡にもなります。フライト中は、いつもその紙一枚を制服のポケットに入れて仕事をしていました。そういうシーンがあるかどうかわかりませんが、あればここだ、と思ってみてください。その理由ですが、グループブライトの場合もそうでない場合も、担当区域はその日のパターンごとで変わるので、後ろと前のギャレー担当者やキャビン担当者は誰か、また緊急脱出は誰と連絡するかなどを確認することが必要だったからです。

当時は青焼き印刷というもので、今のコピーのような白黒ではなく文字はブルーでした。その文字に光があたると薄くなり、消えてしまうようなもので、長期保存には向かない印刷でした。そこで私は32年間、光が当たらないように黒いビニール袋に入れて保存していたのです。たったの紙一枚であっても、私にとっては大切な思い出です。

その気持ちが伝わる再現ドラマであることを願って……。皆さんも是非ご覧ください。

テレビ東京番組公式サイト

www.tv-tokyo.co.jp

 

 

 

1980年代のスチュワーデスと海外旅行秘話 青山透子

さて今週から来週にかけては、昔を振り返り、1980年代(昭和55年から平成元年)のスチュワーデスと日本人の海外旅行事情についてお話をしてみたいと思います。

実はこの「日航123便墜落の新事実」の執筆中、昔の資料や思い出の日記、当時の様々なグッズを引っ張り出して当時をイメージしながら、あの時はこうだったなあ、などと思いながら書いていました。当時を知らない人のために、原稿の段階で、注釈で少しその一部を入れたところ、担当編集者から「あまりに面白すぎるので、別の本にしましょう。これを入れると、この本の全体の流れが変わるからカットします」と無残に言われてしまい、泣く泣くカットした部分をぜひ皆さまにご紹介したいと思います。

1980年代、日本は一般庶民も海外旅行に行けるぞ!ということで、地方は農協を中心として、都市部はパック旅行の全盛期突入、という時代でした。ちょうど昨年ごろまでの中国の方々などと同じようにお金を持ち、大挙をしておしかけるような団体旅行でした。

航空会社ではばら売りの席は高額で、座席の値段がエコノミーの席でも何十万と高額でしたから、いまのような個人客はほとんどいません。会社からお金が出る海外出張者以外はパックで海外旅行、という時代でした。実はその当時、現在のHISの創業者Sさんが、バックパッカーとして欧米で切り売り(余った席)を安く手に入れて飛行機に乗ることを覚え、その残った席を格安で売る、という手法を学んで帰国して現在の格安旅行市場を作ったと聞きました。しかし、これは航空会社にとって正直言って嫌な市場、お客様にとっては最高の市場だったのです。いわゆる網の目をくぐって出来た格安航空券の市場でしょう。そんな時代だったと思ってください。

さて話を戻すと、カットされてしまった部分ですが、当時を思い出しながらどうぞ読んで下さい。

以下、カット部分の秘話です!

〈一九八五年当時、マイレージや格安航空券などなかった時代で、国際線のファーストクラスはノーマル運賃で大変高額であり、ビジネスクラスも企業等の出張が殆どで、一般客は新婚旅行や自治体の視察旅行、農協関係など団体客が多かった。

直行便の最長路線はニューヨーク便で、北回りヨーロッパ便は全てアンカレッジ経由、南回り路線は、東京、バンコック、デリー、カラチ、アブダビバーレーンクウェート、ジェッタ、カイロなど中近東を経由してアテネまで飛んでいた。このフライトが入るとクルーは最長十八日間、家に帰れなかった。

私の記憶する思い出話としては、大阪発ソウル行きで、テ―ブルの上には現金と花札が飛び交い「姉ちゃん」と呼ばれたこともある。おしりを触られた、と言って新人スチュワーデスが泣きそうになったこともあった。そんな怖いお兄さんたちでも、絶対にこちら側の指示に従わなければ着陸後逮捕されてしまうことがある。それは、ソウル空港到着前には必ず機内全ての窓を閉めることであった。これは軍事機密上、空港周辺が国防施設の為とのことだった。北朝鮮との関係や、日本と韓国との関係にとって飛行機の窓を閉めることが重要だった時代である。

南回りでは、インドからの出稼ぎ労働者がカイロなどに行くため、初めて乗る飛行機で文化的にもトイレの使い方がまったくわからないため、座席の上や通路もトイレと思い込んで、その後始末が大変だった。ついこの間までの日本もそうだが、インドも農業の肥料として糞尿は貴重だったことが理由だろう。インドでは道端や田んぼで用を足すことが当たり前であったので、そこで、飛行機内の通路、座席の上、トイレのふたの上、は当たり前に用を足すところであったのだ。中には、ターバンをトイレの水(ブルーレットで色がきれいだと思ったらしい)を使い、便器で洗濯をして、機内の座席の上に干していた。なお、真っ白なターバンはたちまちブルー色に染まり、それを見て驚いた私に、綺麗だろう、と自慢されたことがある。

ちなみに、なぜインドの出稼ぎ労働者がJALに乗っていたかというと、自国のインドのナショナルフラッグのエアーインディアは、スチュワーデスがカースト制のトップクラスのお嬢様だったため、それより以下の身分のものへサービスは出来ない、という理由で乗せてもらえなかったからである。JALはその路線は安く乗せてあげていたそうである。

私が初めてファーストクラスを担当した時、ある富豪がクルーのサービスが良かったと乗務員全員を自家用大型ヨットのクルーズに招待してくれたこともあった。

パリでは、日本人観光客がお金を使いたい放題で爆買いするため、ショッピングツアー客は現地では有難いお客様の反面、マナー違反の日本人、というレッテルが張られていた。例えば、エルメスのスカーフの綺麗な展示品はおばさまたちがバーゲンのようにひっくり返すのでぐちゃぐちゃになり、いつも店員が渋い顔をしていたし、ヴィトンのバックのお店はオープン前に日本人が並ぶため、仕方がなく早々に開店して、店内は日本人だらけとなっていた。

当時のハンサムな人気俳優のアラン・ドロンとの夕食ツアーに参加する団体客は、全員日本人の中年女性ばかりで、とても華やかなロングドレス姿で、赤や黄色、青、のスパンコールの全身をキラキラさせて、団体バスに乗って集団でレストランに行き、パリの人達があまりのすごさに驚いて見ていた。

ニューヨークのティファニーでは、『ティファニーで朝食を』の映画のシーンをまねて、日本人の為に営業時間前の早朝、ティファニー店内で日本人が朝食を食べるツアーもあって、米国人もびっくりしていたこともあった。日本人観光客の振る舞いにこんな時代もあったことを、今、知らない人たちにぜひ伝えておきたい。〉