青山透子公式サイト 日航123便墜落の真相

日航123便墜落事件の真相を追究するー歴史的裁判開始の幕開け

新年いかがお過ごしでしょうか 青山透子

皆様、新年いかがお過ごしでしょうか。

今年はあの日から今年は33回忌です。仏教年ではこれで最後の年。一人ひとりのあの日の心を考えながら、振り返っていきたいと考えています。

まず私が振り返るのは、お世話になった先輩たちへ手紙として書き記していきたいと思います。

あの凄惨で無常な日から、もう三十三年もの月日が流れたのですね。

あの日、アナウンス担当だった対馬さんの気持ちはいったいどうだったのでしょうか。

貴女は当時29歳、長年付き合っていた彼と結婚したばかりでした。その新婚旅行から戻り、「対馬」と苗字が変わっての初のフライトでしたね。まだネームプレートも旧姓のままだったあの時、事故発生から墜落までの先輩の気持ちを考えると、今でも私は胸が痛くなります。

 

私と出会った時は、随分年上だと思っていました。あの頃の先輩のふんわりとした笑顔、落ち着いて気負いを感じさせない穏やかな態度に、当時失敗ばかりしていた新人スチュワーデスだった私の心はどれほど慰められたでしょうか。先輩の柔らかな声は、今でも心の中に残っています。そしてなぜか、その声に私がいつも励まされているような気がしています。

 

2010年、私は、天空の星となった520名の人たちと共に逝ったクルーについて、どうしても書き残して置きたくなり、一冊の本を書きました。取材の過程で、昔スタンバイルームで見た先輩の赤い手帳を、まさか日航安全啓発センターでもう一度見ることになるとは思いませんでした。

墜落現場から発見されたその手帳に、不時着を想定して英語と日本語でびっしりと書かれた機内アナウンス。もし、過酷な墜落状況下で書いたのであれば、貴女はどうしてそこまで強くなれたのでしょうか。

その歪んだ文字は、何を私たち後輩に語ってくれているのでしょうか。なぜ最後の最後まであのようなパワーを持てたのか、本当はとても怖かったのではないか、墜落までの約30分間、ご家族やご主人を思い出さなかったのか、それとも自分の人生を振り返る余裕も時間もなかったのか、もし私が同じ状況だったのならば・・・・数々の疑問と先輩への想いが湧き出てきました。

 

今、ここに当時の自分と重ね合わせて、貴女の気持ちのほんの少しでも分かち合えたらと振り返ってみたい、いいや振り返らなければならないのではないだろうか、そう思えてきました。それが本当の33回忌の供養となるのではないだろうかと思います。

 

貴女の文字は、私たちに何を残し、何を語りたかったのでしょうか・・・・

今年の締めくくり・来日したアレクシェービッチさんの疑問に答える

あと数時間で2017年。酉年は大空に羽ばたく鳥のごとく、飛躍の年としたいものです。このサイトを愛読して下さる皆様に深く感謝申し上げます。不定期の数少ない更新にもかかわらず、多くの方々に読んでいただきました。

先月、ノーベル賞作家アレクシェービッチさんが来日されて福島に行かれました。そして名誉博士号を授与された東京外語大で講演をなさいました。今年の初めに彼女の話を書いたので、彼女の言葉を今年の締めとしたいと思います。

彼女が思った日本人への印象として、大きな疑問が次の言葉でした。

社会主義国家における全体主義の長い文化(旧ソ連)ならわかるが、日本社会において人々が団結する形での『抵抗』の文化がないのはなぜでしょうか(責めるのではなく)福島の人々はなぜ団結して原発反対や国に対して抵抗していかないのでしょうか」

そして、国というものは人の命に全責任を負うことはしない、国民の意識の軍事化(強制的に右に倣えというような同質化)にも警戒を鳴らしていました。

福島については、国を提訴した福島の女性が一人ではなく、千人以上いれば福島の人々に対する国(及び国民)の態度も変わったかもしれない、とおっしゃていました。

どうも今の日本には、団結して「抵抗」することが悪いこと、国に逆らうと良くない、逆に損をする、福島からの避難者をいじめる、悪意をもって発言をする人が多いから黙る、団結出来ない、という変な文化?が蔓延っているようです。

人は社会からの強い抑圧や差別、弾圧といった非人間的な扱いをされた場合、微力な民衆が団結をして弾圧する政府や組織に抵抗する、という構図が成り立つのだと思います。しかし、長い間、例えば原発問題における金銭的な解決法やにじり寄りの方法、複雑に利害が絡み合った人間関係の上に成り立つ契約や取引などで、どうにも動きが取れない場合、団結や抵抗という文化が育たなくなっていくように思います。お互いうまい汁を吸った、と言い合い、田舎で世話になった人や恩義のある人が相手側だったり、お互いに依存し合っていたり・・・

移民国家の米国のように多種多様な人々の集まりでは、それはそれ、これはこれ、と良い意味で明確に分けて考えられる場合も多く、ドライな取引も可能ですし、民主主義の当然の権利として堂々と発言する人も多いでしょう。しかし、同質性の極みのような島国の日本では、近隣で同じ顔をした同じような考え方をする人々が、同じような営みを長年続けている為に言いづらい環境であったりします。こうして、諦めや抵抗の文化が失われていくのだと考えます。

そうなると、真実を追究しようとする人にとっては非常にやりずらい環境になります。たとえば、おかしな部分を見つけ出し、それを指摘したり、正義感をもって正しいことを実行する段階に、見えない恐れと歯止めがかかり、知らないうちに見て見ぬふりをして、自分され良ければよい、と諦めの気持ちが芽生えてくるからです。それは、都合の悪い情報を隠したい人にとっては最高に住みやすい国となってしまいます。これが生きにくい社会となる原因だと思います。

2017年は、日航123便事件発生による520名の人々の三十三回忌です。

これは、仏教年で弔い上げとなります。これ以降はもう個人ではなく私たち先祖の霊となって極楽浄土へ行く、という意味もあります。

そして、この33年という長くて重い年月を過ごしてきた事件関係者の皆様、せめて弔い上げとして、目撃したことや知っている事実をお話下さることを願っています。

遺族のKさんの言葉です。

「愛する人を失った遺族としては真実が知りたい。それが本当の供養になる」

2017年、どうぞよろしくお願い申し上げます。

 

 

 

 

これで飛行機が落とせるの?と書いた人の無神経さと無知を考える

12月2日付け新聞各紙に掲載された、自衛隊群馬地方協力本部HPにおける自衛隊職場体験の中学生見学者の「語り」として書かれた、「これで飛行機が落とせるの?」に言葉を失った人も多かったでしょう。私もそれが群馬県前橋市という地名とも重なって、唖然としました。

そのHPは、群馬県内の中学生(年間300名程)が群馬県内の自衛隊を見学し、その最中に発した言葉として、写真と共に掲載された(現在削除)ものでした。群馬県相馬原駐屯地(榛東村)や新町駐屯地(高崎市)にて、見学の中学生たちが訓練用の武器を操作しながら、「短距離ミサイル追従訓練開始、これで飛行機を落とせるの?」等々の言葉を発したかのような書き込みが書かれていました。なお、これらの言葉は勝手に自衛隊側が書いた、と記事に書いてありました。この意識で「将来は自衛隊で決まり」であれば、一体どのような組織になっていくのか、自ずから見えてくるでしょう。

職場体験ならば、まず武器はゲーム用ではなく実際の人を殺すものであり、それをリアルなものとして教えるのが先ではないでしょうか。そして、それを扱う人間側の意識を高め、安易に使用しない、と教えるのが自衛隊としてのプライドではないでしょうか。あくまでも日本は自衛の隊なのですから当然でしょう。

この記事を読んだ自衛隊員の中で、訓練を重ねてそのリアルさ、怖さを知っている人であれば、本当に情けないと心の中で嘆いている人も多いのではないでしょうか。

つまり、若い彼らにそのような言葉で就職してもらおうと「釣る」のではなく、真剣で真摯な気持ちで接するべきです。本物のプロ意識というものはそういうものです

さらに、これが群馬県内であり、123便墜落直後に駆け付けた相馬原駐屯地だ、ということを地元の中学校関係者も忘れているのではないでしょうか。

例えばミサイル等に落とされた側の飛行機が、敵の軍用機や飛行機のみならず、民間機(全日空58便雫石墜落事件やトランスワールド800便、マレーシア航空17便、大韓航空007便など)の場合もあるのです。123便墜落現場の群馬県ならば特に忘れてはいけない。全ては過去の出来事だから、となった時が一番恐ろしいのです。

自衛隊も武器を使用しての訓練や、駆け付け警護で何が起きるかわかりません。すべてにおいてミスや事故、事件等を正面から見据えて、それを正当化せずに反省し、そこで得たことを真剣に学び、二度と繰り返さない、と教えていくことこそが、自浄作用のある組織であり、無知な人間にならずに済む方法だと考えます。

最近この手の安易な書き込みをする無知な人々と無神経な人々が増えているのが残念でなりません。

 

 

 

加藤紘一氏ご逝去に想う 

皆さまもすでにご存じの通り、加藤紘一氏が9月9日に77歳で御逝去されました。

加藤氏は事故時の防衛庁(当時)長官で49歳でした。あの事故の次の日、1985年8月13日付のジャパンタイムスの記事には、中曽根氏と共に加藤氏が米国太平洋軍司令官のWilliam J.Crowe氏に日本国からの感謝の意を込めたという勲章を授与している写真が出ていました。そしてCrowe氏が来月半ばに任期途中に帰国する旨が書いてありました。通常、太平洋軍司令官は3年から4年間が任務期間ですが、彼は1983年7月1日から1985年9月18日の2年2か月と短い期間でした。他の司令官の任務と比べて見るとその短さに違和感を感じます。

さて、加藤氏には1998年頃にお会いしたことがあります。その時は宏池会主催で日本の21世紀構想について論文が募集されて、私の論文が入選したという事でお会いしました。今思うと、ちょうど加藤の乱の前でしたが、数々の国際的な問題に対して真剣にこの国の行方を考えていらっしゃいました。大変温厚で知性溢れる方という印象があります。実はその時は私自身も全く日航123便の事故について詳細に知らず、一般人同様に事故原因に疑問すら持っていなかったのです。しかしその後、拙著を書く中で調査した結果、様々な事実があきらかになってきました。そこで123便の事故原因について、遺族の方と共に加藤氏に荒唐無稽とおっしゃらないでください、と伝えたくなり、もう一度加藤氏にお会いしてお話を聞く機会をお願いしました。ちょうどそのチャンスを与えてくれた人がいらっしゃったので、その方とご一緒に永田町へ出向く予定でした。これは2014年の話です。その頃偶然ですが、マレーシア航空機行方不明事件がありました。そして、ミャンマーから帰国後にお話しを聞く機会を設定していただいていたのです。

その後報道のように体調を崩されて入院し、リハビリの毎日だったとお聞きしました。

結局123便事件についてはお話をお聞きすることが出来ず、本当に心残りな気がします。あの時、ミャンマーに行く前にお話しを聞けば良かったと大変残念に思っています。心からご冥福をお祈り申し上げます。

 

31年目の夏 御巣鷹の尾根への誓い

31年目の夏 御巣鷹の尾根への誓い

~墜落前の日航機を追尾中に目撃された自衛隊機ファントム2機の存在を明らかにすることが最大の供養である~

 

 この1年間、読者の皆様、この公式サイトをご覧下さった皆様からの様々な情報や物の提供、ご意見をお寄せ頂きまして有難うございました。

真摯な気持ちで既存の事故原因とは別に、一歩踏み込んだ内容をお送り下さった方々に心から感謝申し上げます。

ただ、出版社に直接来られた方や自説を送付された方の中には、残念ながら偽りの電話番号や住所、偽名もあり、こういった素性のよく分からない方のご意見については信憑性も信頼関係もありませんので一切を破棄させていただきました。何卒ご了承下さい。

 

 今なお私の最大の疑問は、複数の目撃証言のある自衛隊のファントム2機による123便の追尾です。公式記録よりも30分以上も前に、墜落直前まで目撃者がいるこのファントムの存在をなぜ今なお隠すのか、今後はこの一点に絞ってさらに調査をしていきたいと思います。この事実については黙殺されていますが、何もやましいことがなければ、隠す必要はありません。2機が追尾した状況を目撃した非番の自衛隊員もいます。墜落時刻の18時56分よりも前の18時45分の目撃情報からわかることは、まだ日が沈む前に墜落場所が明確になっていた、ということです。

その後、次のファントム2機(ここからが公式記録にある19時01分)が飛び立っています。

何度も書きますが、墜落前に日航機を追尾したことついてきちんと説明してほしい、それがご遺族や関係者の皆さんの気持ちであり、当然のことながら、公式記録と辻褄があわないことを自衛隊関係者に説明してほしいと思っています。

そこで皆様にお願いですが、これに関する情報をぜひお願い致します。

 

さて、7月23日に尾根の整備中に日航社員の相馬裕さんが滑落してお亡くなりになったことは本当に残念でした。相馬さんは31年前の事故当時、香港の空港勤務で私の知り合いの先輩(地上職)で同期入社の方と一緒に仕事をなさっていました。その後、乗員の業務関連の総務などを経て被災者相談室に勤務された、とのことでした。ご本人もさぞ無念だったことでしょう。まさかの事故だったと思いますが、ご冥福を心からお祈り申し上げます。

 

 さらに、7月26日付け新聞記事の「行方不明のマレーシア航空機機長自殺説」には驚きました。それもなぜか米誌(ニューヨーク)にて突然発表されたのです。当のマレーシア政府は全く知らない、提出した覚えもない、と報道を否定しています。その内容は、2014年3月に行方不明となったマレーシア航空機の機長の自宅パソコンを分析したのがFBI(米連邦捜査局)で、模擬飛行装置にその形跡があり「機長が自殺フライトの計画をしていた」という内部文書が出た、とあります。確かにドイツ(ジャーマンウイングス9525便)ではそういう事故もありました。しかし、なぜいきなり米国の雑誌で発表なのでしょうか。大きな疑問が残る記事でした。これは31年前、いきなりニューヨークタイムスで墜落原因はボーイングの修理ミスだと圧力隔壁説と出し、日本側の事故調がまだ調査段階なのに不快感を表明した、あの31年前と似ているパターンだと感じました。

そして続きの記事(8月2日付)として、今度はインド洋で捜索を主導しているオーストラリア運輸安全局の発表として、機長は墜落直前まで機体を不時着すべく燃料切れまで操縦していた形跡がある、と発表しています。つまり、フランス領で見つかった翼の残骸から、最後まで不時着を想定した状態であったとわかってきたということです。しかし、それではFBIによる自殺説は成り立ちません。自殺ならばわざわざ不時着用の操作をする必要はなく、ドイツの前例事故のようにそのまま突っ込んでいったほうが、より一層破壊力が強いからです。パイロットの不時着用操作とはフラップの位置などから推定されますが、そうなると明らかに自殺ではなく、生存をかけた不時着の操作を行ったことになります。つまり、米誌ニューヨーク(電子版)での発表よりも、客観的な事実に基づくオーストラリアの発表のほうが真実に近いということになるでしょう。

 

いずれにしても、31年目の夏に思うことは、墜落前の時刻に、日航機の垂直尾翼の状態を確認しながら横に並んで飛んでいたファントム2機を見なかったことには絶対に出来ない、当時の子供たちの小さな目もそして大人たちの大きな目もしっかり見た、という事実について、明らかにしてほしいということです。それがいつまでもこの事件を風化させてはならない最大の理由です。

鹿児島の空自機不明の墜落事故と捜索の違和感

4月6日に鹿児島県上空にて消息を絶った航空自衛隊飛行点検隊(埼玉県入間基地)は、全国陸海空43基地の保安設備点検を任務としている。6日の午後2時35分ごろに880メートル上空付近でレーダーから消えたという。この日は航空機の着陸誘導などの電波の発信状況などのチェックを行っていた。このように低空で日常的にいつものようなルートで業務を行っている場合、通常ならば墜落地点は関係者ならばおよその検討がつくものだ。

一晩中捜索しても不明とはどういうことか。それほどまでに自衛隊は捜索活動が苦手で無能なのだろうか。物々しい中、自衛隊員、消防、警察と集まってきたそうだが、結局翌日の午後、つい先ほど墜落場所がわかった。墜落地点は鹿児島県鹿屋市、高隅山山麓西標高約500mにある市営の鳴之尾牧場から4キロの地点という。墜落時に大人4人が朝から牧場で作業をしていたそうだが、別に墜落音のような大きな音は聞こえなかったのだが、というコメントが新聞各紙に載っていた。オレンジ色の光を見た人もいるという。市営の牧場ならば、電話で確認をすることもすぐできるはずだ。

なぜ丸一日捜索しても見つからなかったのだろうか。それほどまでに捜索が困難な地域だとも思えない。普通に牧場があるのだから、人が全く入れないわけではない。

このような行方不明事件に共通するのは、あまりにも捜索が遅れたということと、捜索に関わる人の多さに対する違和感、そして説明の不可解さである。

つまり、123便事件のような状況である。

例えば、間違って自衛隊が誤射してしまったのではないだろうか、ということが考えられる。そうなると、事故原因に思い当たる関係者の人々は、まず生命を守るとか、早急に捜索するとかよりも何か他のことを優先してしまう。天候のせいや地理的状況のせいにして、別の確認を優先する。これが情けないかな人間の愚かさでもある。

事実、6日は航空自衛隊の西部航空隊管内日向灘東方東方海面(R-109)にて航空自衛隊が朝の8時から17時まで、空対空機関砲、空対水爆撃の訓練を行っていた。

またこの6日は海上自衛隊射撃訓練も行われ、呉警備区の豊後水道南方(L-1)区域にて、自衛艦9隻が6時から18時まで、航空機標的機の飛行を行っている。何れも防衛省HPに掲載されている。

だからと言ってすぐにこれらが関連しているとは言えないが、こういったことを一つずつ丁寧に検証していかなければ、本当の真実は出にくい。

これから自衛隊が安保法でいろいろな場に出ていく上においても、隠ぺい工作や誤射は許されるものではなく、きちんと自ら検証する意識がなくては、今後大変な事態になりかねない。事故調査は客観的に、全ての情報を公開し、必ず後世の人々に明確にわかるようにしておかなければ、何時まで経っても事故はなくならない。

お亡くなりになった6名の自衛隊員に合掌。

 

 

2016年元旦からノーベル文学賞受賞作品「チェルノブイリの祈り」を読む 青山透子

新年を迎え、皆さんはどのような1年にしたいと思っていらっしゃいますか。

元旦早々、ノーベル文学賞受賞スベトラーナ・アレクシェービッチ氏の「チェルノブイリの祈り~未来の物語(岩波現代文庫,2011)」を読みました。皆さんはもうお読みになりましたか。これは政府による圧力にもめげずに、地道に書きあげたノンフィクションの労作です。ノーベル賞とはこういうものだ、という選考委員の矜持と心意気を感じました。

小説という形ではなく、あえてドキュメンタリー風で事実を淡々と描くことで想像力が働き、逆に読む人の心に放射能という見えないものへの恐怖心がこみ上げてきます。

人間は見たくないものを避けてしまう愚かしさがある、しかしながら、敢てそれを克服して全てを直視しなければならない、無知であってはならない、と強く思いました。その無知が生み出す群衆心理のあさましさもしっかりと書かれています。最終的には政治家は自分たちの味方ではなく、己の為に政治家となっただけであり、すぐに保身に走る、そして事実があまりに大きいと思考停止となり誰もが隠したがるようになる。結局、事故の犠牲者となってしまった人々の激しい怒りは未来永劫消えることは無い、そのつらさともどかしさ、滅びゆく肉体への恐怖、そのような人々の生の声を結集した作品でした。

 

ある政治家の妻から聞いた話です。日本で有名な財団が大金を使い、チェルノブイリ事故について詳細に調査をして、その結果を家に持ってきたそうです。そこには、チェルノブイリの事故は大したことなかった、とか、子供達は病気になっていない、とか…そういった報告書の内容だったそうです。それを鵜呑みにする政治家も愚かですが、そういう報告書を書く人々ってどういう人なのだろうか、と改めてこの本を読みながら思い出しました。

恐らくそれは普通の人で、けして特別な人ではないと思いました。例えば東芝の不適切会計の事実が発覚しましたが、それらを実行した人々は普通のお父さん(またはお母さん)だったと思います。JALの倒産の時もそうです。経営者はずっと不適切会計をごまかしてきて、最終的には国に助けを求めて倒産したのですが、その時の役員たちも普通の人でした。経営者にとって都合の悪い人々を排除し続けた結果でした。特に自分の地位やお金が絡む利害関係者の場合、それは顕著です。人間とはそういう愚かな生き物なのでしょう。

ナチスドイツで、ヒットラーの下でユダヤ人虐殺を率先して行ったアドルフ・アイヒマンも実は普通の人でした。戦後、なぜこのような残虐な行為が出来るのかについて、一般人を被験者として実験した米国エール大学のスタンレー・ミルグラム博士の論文によると、誰でも一定の指示があると残虐者になりうる、という結論でした。

気付いた時には本当に遅いのですが、それを自分自身も周りも誰も止められない状況になっていくそうです。さらにお囃子のように、貴方は凄い、偉いとはやし立てる人もいます。それもなんと無責任なことでしょうか。

いずれにしても人間は、ある種の生存本能がそこで作動してしまい、見て見ぬふりをして、自分たちに都合の悪い現実はなかったことにしたいそうです。しかしながら、被害者はなかったことにはできません。

事故の事実はなかったことには出来ないのです。それを冷静に見つめる勇気を持ちたいと思います。

 

追記ですが、色々な情報やご自身で思う事を書いて送って下さる読者の皆さまに心から感謝いたします。また、こちらでも紹介した早稲田大学水島朝穂教授の公式サイトでも、1997年から直言を書かれた中で、アクセストップ3に私の日航機事件についてが2つとも入っておりました。先日、東京新聞で、水島教授の千回記念についての記事がありました。日本国内のみならず海外からのアクセス数が多いそうです。米国でもトランスワールド航空事件のように、元NTSBの方が、引退後に事故ではなかった、と証明したこともありますので、世界的に軍の関与を含めた疑問点の多い航空機事故は実際にある、ということでしょう。

 

なお、この公式サイトへの感想や書き込み位は別として、匿名の書類や証拠がないものは、こちらで責任をもって取り上げることはできませんのでどうぞご了承くださいませ。

例えば、自分で仮説を立てた場合、その仮説を実証する品や目撃情報等がないと、残念ながらそれは妄想だと言われてしまい、どうしても事実の解明にはなりにくいのです。

ただこの事故は事件だと思うその感覚は大変重要です。皆さまと共に地道に事実を積み重ねていきたいと思っています。それは大変困難な道のりかもしれませんが、私はスベトラーナさんに励まされたような気がしました。

今年もどうぞよろしくお願いします。