青山透子公式サイト 日航123便墜落の真相

日航123便墜落事件の真相を追究するー歴史的裁判開始の幕開け

これで飛行機が落とせるの?と書いた人の無神経さと無知を考える

12月2日付け新聞各紙に掲載された、自衛隊群馬地方協力本部HPにおける自衛隊職場体験の中学生見学者の「語り」として書かれた、「これで飛行機が落とせるの?」に言葉を失った人も多かったでしょう。私もそれが群馬県前橋市という地名とも重なって、唖然としました。

そのHPは、群馬県内の中学生(年間300名程)が群馬県内の自衛隊を見学し、その最中に発した言葉として、写真と共に掲載された(現在削除)ものでした。群馬県相馬原駐屯地(榛東村)や新町駐屯地(高崎市)にて、見学の中学生たちが訓練用の武器を操作しながら、「短距離ミサイル追従訓練開始、これで飛行機を落とせるの?」等々の言葉を発したかのような書き込みが書かれていました。なお、これらの言葉は勝手に自衛隊側が書いた、と記事に書いてありました。この意識で「将来は自衛隊で決まり」であれば、一体どのような組織になっていくのか、自ずから見えてくるでしょう。

職場体験ならば、まず武器はゲーム用ではなく実際の人を殺すものであり、それをリアルなものとして教えるのが先ではないでしょうか。そして、それを扱う人間側の意識を高め、安易に使用しない、と教えるのが自衛隊としてのプライドではないでしょうか。あくまでも日本は自衛の隊なのですから当然でしょう。

この記事を読んだ自衛隊員の中で、訓練を重ねてそのリアルさ、怖さを知っている人であれば、本当に情けないと心の中で嘆いている人も多いのではないでしょうか。

つまり、若い彼らにそのような言葉で就職してもらおうと「釣る」のではなく、真剣で真摯な気持ちで接するべきです。本物のプロ意識というものはそういうものです

さらに、これが群馬県内であり、123便墜落直後に駆け付けた相馬原駐屯地だ、ということを地元の中学校関係者も忘れているのではないでしょうか。

例えばミサイル等に落とされた側の飛行機が、敵の軍用機や飛行機のみならず、民間機(全日空58便雫石墜落事件やトランスワールド800便、マレーシア航空17便、大韓航空007便など)の場合もあるのです。123便墜落現場の群馬県ならば特に忘れてはいけない。全ては過去の出来事だから、となった時が一番恐ろしいのです。

自衛隊も武器を使用しての訓練や、駆け付け警護で何が起きるかわかりません。すべてにおいてミスや事故、事件等を正面から見据えて、それを正当化せずに反省し、そこで得たことを真剣に学び、二度と繰り返さない、と教えていくことこそが、自浄作用のある組織であり、無知な人間にならずに済む方法だと考えます。

最近この手の安易な書き込みをする無知な人々と無神経な人々が増えているのが残念でなりません。

 

 

 

加藤紘一氏ご逝去に想う 

皆さまもすでにご存じの通り、加藤紘一氏が9月9日に77歳で御逝去されました。

加藤氏は事故時の防衛庁(当時)長官で49歳でした。あの事故の次の日、1985年8月13日付のジャパンタイムスの記事には、中曽根氏と共に加藤氏が米国太平洋軍司令官のWilliam J.Crowe氏に日本国からの感謝の意を込めたという勲章を授与している写真が出ていました。そしてCrowe氏が来月半ばに任期途中に帰国する旨が書いてありました。通常、太平洋軍司令官は3年から4年間が任務期間ですが、彼は1983年7月1日から1985年9月18日の2年2か月と短い期間でした。他の司令官の任務と比べて見るとその短さに違和感を感じます。

さて、加藤氏には1998年頃にお会いしたことがあります。その時は宏池会主催で日本の21世紀構想について論文が募集されて、私の論文が入選したという事でお会いしました。今思うと、ちょうど加藤の乱の前でしたが、数々の国際的な問題に対して真剣にこの国の行方を考えていらっしゃいました。大変温厚で知性溢れる方という印象があります。実はその時は私自身も全く日航123便の事故について詳細に知らず、一般人同様に事故原因に疑問すら持っていなかったのです。しかしその後、拙著を書く中で調査した結果、様々な事実があきらかになってきました。そこで123便の事故原因について、遺族の方と共に加藤氏に荒唐無稽とおっしゃらないでください、と伝えたくなり、もう一度加藤氏にお会いしてお話を聞く機会をお願いしました。ちょうどそのチャンスを与えてくれた人がいらっしゃったので、その方とご一緒に永田町へ出向く予定でした。これは2014年の話です。その頃偶然ですが、マレーシア航空機行方不明事件がありました。そして、ミャンマーから帰国後にお話しを聞く機会を設定していただいていたのです。

その後報道のように体調を崩されて入院し、リハビリの毎日だったとお聞きしました。

結局123便事件についてはお話をお聞きすることが出来ず、本当に心残りな気がします。あの時、ミャンマーに行く前にお話しを聞けば良かったと大変残念に思っています。心からご冥福をお祈り申し上げます。

 

31年目の夏 御巣鷹の尾根への誓い

31年目の夏 御巣鷹の尾根への誓い

~墜落前の日航機を追尾中に目撃された自衛隊機ファントム2機の存在を明らかにすることが最大の供養である~

 

 この1年間、読者の皆様、この公式サイトをご覧下さった皆様からの様々な情報や物の提供、ご意見をお寄せ頂きまして有難うございました。

真摯な気持ちで既存の事故原因とは別に、一歩踏み込んだ内容をお送り下さった方々に心から感謝申し上げます。

ただ、出版社に直接来られた方や自説を送付された方の中には、残念ながら偽りの電話番号や住所、偽名もあり、こういった素性のよく分からない方のご意見については信憑性も信頼関係もありませんので一切を破棄させていただきました。何卒ご了承下さい。

 

 今なお私の最大の疑問は、複数の目撃証言のある自衛隊のファントム2機による123便の追尾です。公式記録よりも30分以上も前に、墜落直前まで目撃者がいるこのファントムの存在をなぜ今なお隠すのか、今後はこの一点に絞ってさらに調査をしていきたいと思います。この事実については黙殺されていますが、何もやましいことがなければ、隠す必要はありません。2機が追尾した状況を目撃した非番の自衛隊員もいます。墜落時刻の18時56分よりも前の18時45分の目撃情報からわかることは、まだ日が沈む前に墜落場所が明確になっていた、ということです。

その後、次のファントム2機(ここからが公式記録にある19時01分)が飛び立っています。

何度も書きますが、墜落前に日航機を追尾したことついてきちんと説明してほしい、それがご遺族や関係者の皆さんの気持ちであり、当然のことながら、公式記録と辻褄があわないことを自衛隊関係者に説明してほしいと思っています。

そこで皆様にお願いですが、これに関する情報をぜひお願い致します。

 

さて、7月23日に尾根の整備中に日航社員の相馬裕さんが滑落してお亡くなりになったことは本当に残念でした。相馬さんは31年前の事故当時、香港の空港勤務で私の知り合いの先輩(地上職)で同期入社の方と一緒に仕事をなさっていました。その後、乗員の業務関連の総務などを経て被災者相談室に勤務された、とのことでした。ご本人もさぞ無念だったことでしょう。まさかの事故だったと思いますが、ご冥福を心からお祈り申し上げます。

 

 さらに、7月26日付け新聞記事の「行方不明のマレーシア航空機機長自殺説」には驚きました。それもなぜか米誌(ニューヨーク)にて突然発表されたのです。当のマレーシア政府は全く知らない、提出した覚えもない、と報道を否定しています。その内容は、2014年3月に行方不明となったマレーシア航空機の機長の自宅パソコンを分析したのがFBI(米連邦捜査局)で、模擬飛行装置にその形跡があり「機長が自殺フライトの計画をしていた」という内部文書が出た、とあります。確かにドイツ(ジャーマンウイングス9525便)ではそういう事故もありました。しかし、なぜいきなり米国の雑誌で発表なのでしょうか。大きな疑問が残る記事でした。これは31年前、いきなりニューヨークタイムスで墜落原因はボーイングの修理ミスだと圧力隔壁説と出し、日本側の事故調がまだ調査段階なのに不快感を表明した、あの31年前と似ているパターンだと感じました。

そして続きの記事(8月2日付)として、今度はインド洋で捜索を主導しているオーストラリア運輸安全局の発表として、機長は墜落直前まで機体を不時着すべく燃料切れまで操縦していた形跡がある、と発表しています。つまり、フランス領で見つかった翼の残骸から、最後まで不時着を想定した状態であったとわかってきたということです。しかし、それではFBIによる自殺説は成り立ちません。自殺ならばわざわざ不時着用の操作をする必要はなく、ドイツの前例事故のようにそのまま突っ込んでいったほうが、より一層破壊力が強いからです。パイロットの不時着用操作とはフラップの位置などから推定されますが、そうなると明らかに自殺ではなく、生存をかけた不時着の操作を行ったことになります。つまり、米誌ニューヨーク(電子版)での発表よりも、客観的な事実に基づくオーストラリアの発表のほうが真実に近いということになるでしょう。

 

いずれにしても、31年目の夏に思うことは、墜落前の時刻に、日航機の垂直尾翼の状態を確認しながら横に並んで飛んでいたファントム2機を見なかったことには絶対に出来ない、当時の子供たちの小さな目もそして大人たちの大きな目もしっかり見た、という事実について、明らかにしてほしいということです。それがいつまでもこの事件を風化させてはならない最大の理由です。

鹿児島の空自機不明の墜落事故と捜索の違和感

4月6日に鹿児島県上空にて消息を絶った航空自衛隊飛行点検隊(埼玉県入間基地)は、全国陸海空43基地の保安設備点検を任務としている。6日の午後2時35分ごろに880メートル上空付近でレーダーから消えたという。この日は航空機の着陸誘導などの電波の発信状況などのチェックを行っていた。このように低空で日常的にいつものようなルートで業務を行っている場合、通常ならば墜落地点は関係者ならばおよその検討がつくものだ。

一晩中捜索しても不明とはどういうことか。それほどまでに自衛隊は捜索活動が苦手で無能なのだろうか。物々しい中、自衛隊員、消防、警察と集まってきたそうだが、結局翌日の午後、つい先ほど墜落場所がわかった。墜落地点は鹿児島県鹿屋市、高隅山山麓西標高約500mにある市営の鳴之尾牧場から4キロの地点という。墜落時に大人4人が朝から牧場で作業をしていたそうだが、別に墜落音のような大きな音は聞こえなかったのだが、というコメントが新聞各紙に載っていた。オレンジ色の光を見た人もいるという。市営の牧場ならば、電話で確認をすることもすぐできるはずだ。

なぜ丸一日捜索しても見つからなかったのだろうか。それほどまでに捜索が困難な地域だとも思えない。普通に牧場があるのだから、人が全く入れないわけではない。

このような行方不明事件に共通するのは、あまりにも捜索が遅れたということと、捜索に関わる人の多さに対する違和感、そして説明の不可解さである。

つまり、123便事件のような状況である。

例えば、間違って自衛隊が誤射してしまったのではないだろうか、ということが考えられる。そうなると、事故原因に思い当たる関係者の人々は、まず生命を守るとか、早急に捜索するとかよりも何か他のことを優先してしまう。天候のせいや地理的状況のせいにして、別の確認を優先する。これが情けないかな人間の愚かさでもある。

事実、6日は航空自衛隊の西部航空隊管内日向灘東方東方海面(R-109)にて航空自衛隊が朝の8時から17時まで、空対空機関砲、空対水爆撃の訓練を行っていた。

またこの6日は海上自衛隊射撃訓練も行われ、呉警備区の豊後水道南方(L-1)区域にて、自衛艦9隻が6時から18時まで、航空機標的機の飛行を行っている。何れも防衛省HPに掲載されている。

だからと言ってすぐにこれらが関連しているとは言えないが、こういったことを一つずつ丁寧に検証していかなければ、本当の真実は出にくい。

これから自衛隊が安保法でいろいろな場に出ていく上においても、隠ぺい工作や誤射は許されるものではなく、きちんと自ら検証する意識がなくては、今後大変な事態になりかねない。事故調査は客観的に、全ての情報を公開し、必ず後世の人々に明確にわかるようにしておかなければ、何時まで経っても事故はなくならない。

お亡くなりになった6名の自衛隊員に合掌。

 

 

2016年元旦からノーベル文学賞受賞作品「チェルノブイリの祈り」を読む 青山透子

新年を迎え、皆さんはどのような1年にしたいと思っていらっしゃいますか。

元旦早々、ノーベル文学賞受賞スベトラーナ・アレクシェービッチ氏の「チェルノブイリの祈り~未来の物語(岩波現代文庫,2011)」を読みました。皆さんはもうお読みになりましたか。これは政府による圧力にもめげずに、地道に書きあげたノンフィクションの労作です。ノーベル賞とはこういうものだ、という選考委員の矜持と心意気を感じました。

小説という形ではなく、あえてドキュメンタリー風で事実を淡々と描くことで想像力が働き、逆に読む人の心に放射能という見えないものへの恐怖心がこみ上げてきます。

人間は見たくないものを避けてしまう愚かしさがある、しかしながら、敢てそれを克服して全てを直視しなければならない、無知であってはならない、と強く思いました。その無知が生み出す群衆心理のあさましさもしっかりと書かれています。最終的には政治家は自分たちの味方ではなく、己の為に政治家となっただけであり、すぐに保身に走る、そして事実があまりに大きいと思考停止となり誰もが隠したがるようになる。結局、事故の犠牲者となってしまった人々の激しい怒りは未来永劫消えることは無い、そのつらさともどかしさ、滅びゆく肉体への恐怖、そのような人々の生の声を結集した作品でした。

 

ある政治家の妻から聞いた話です。日本で有名な財団が大金を使い、チェルノブイリ事故について詳細に調査をして、その結果を家に持ってきたそうです。そこには、チェルノブイリの事故は大したことなかった、とか、子供達は病気になっていない、とか…そういった報告書の内容だったそうです。それを鵜呑みにする政治家も愚かですが、そういう報告書を書く人々ってどういう人なのだろうか、と改めてこの本を読みながら思い出しました。

恐らくそれは普通の人で、けして特別な人ではないと思いました。例えば東芝の不適切会計の事実が発覚しましたが、それらを実行した人々は普通のお父さん(またはお母さん)だったと思います。JALの倒産の時もそうです。経営者はずっと不適切会計をごまかしてきて、最終的には国に助けを求めて倒産したのですが、その時の役員たちも普通の人でした。経営者にとって都合の悪い人々を排除し続けた結果でした。特に自分の地位やお金が絡む利害関係者の場合、それは顕著です。人間とはそういう愚かな生き物なのでしょう。

ナチスドイツで、ヒットラーの下でユダヤ人虐殺を率先して行ったアドルフ・アイヒマンも実は普通の人でした。戦後、なぜこのような残虐な行為が出来るのかについて、一般人を被験者として実験した米国エール大学のスタンレー・ミルグラム博士の論文によると、誰でも一定の指示があると残虐者になりうる、という結論でした。

気付いた時には本当に遅いのですが、それを自分自身も周りも誰も止められない状況になっていくそうです。さらにお囃子のように、貴方は凄い、偉いとはやし立てる人もいます。それもなんと無責任なことでしょうか。

いずれにしても人間は、ある種の生存本能がそこで作動してしまい、見て見ぬふりをして、自分たちに都合の悪い現実はなかったことにしたいそうです。しかしながら、被害者はなかったことにはできません。

事故の事実はなかったことには出来ないのです。それを冷静に見つめる勇気を持ちたいと思います。

 

追記ですが、色々な情報やご自身で思う事を書いて送って下さる読者の皆さまに心から感謝いたします。また、こちらでも紹介した早稲田大学水島朝穂教授の公式サイトでも、1997年から直言を書かれた中で、アクセストップ3に私の日航機事件についてが2つとも入っておりました。先日、東京新聞で、水島教授の千回記念についての記事がありました。日本国内のみならず海外からのアクセス数が多いそうです。米国でもトランスワールド航空事件のように、元NTSBの方が、引退後に事故ではなかった、と証明したこともありますので、世界的に軍の関与を含めた疑問点の多い航空機事故は実際にある、ということでしょう。

 

なお、この公式サイトへの感想や書き込み位は別として、匿名の書類や証拠がないものは、こちらで責任をもって取り上げることはできませんのでどうぞご了承くださいませ。

例えば、自分で仮説を立てた場合、その仮説を実証する品や目撃情報等がないと、残念ながらそれは妄想だと言われてしまい、どうしても事実の解明にはなりにくいのです。

ただこの事故は事件だと思うその感覚は大変重要です。皆さまと共に地道に事実を積み重ねていきたいと思っています。それは大変困難な道のりかもしれませんが、私はスベトラーナさんに励まされたような気がしました。

今年もどうぞよろしくお願いします。

 

 

 

 

最後の特攻隊員信太正道氏ご逝去と故日高恒太朗氏の「不時着ー特攻、死からの生還者たちー」

信太正道氏、日高浩太朗氏を偲ぶ                    青山透子

お二人にお会いした時のさわやかな笑顔が今もなお目に浮かぶ。

信太正道氏は、最後の特攻隊員で後に航空自衛隊教官、そして日本航空B747のキャプテンであった。私が入社した当時は成田地区所属CAP7期。ちなみに、日航123便事故で亡くなった高浜雅巳氏はCAP50期で、羽田地区のB747の乗員教官室所属だった。信太さんは高浜さんの大先輩といえる。彼は特攻隊員として出撃直前に終戦となったが、日航を定年退職後、反戦活動を行っていた。戦争を起こさないようにするには、皆さんが戦争を嫌いだと言い続けなければならないとして「厭戦庶民の会」を結成させた。私の本をお送りしてお会いした時、「あのね、戦争屋は常に争いを作り出す。戦後、特攻隊を美化する人も多いが、現実はそうじゃなかった。天皇万歳なんかじゃないんだ。お母さん、お父さんと言いながら死んでいった。戦後、ウソつきの人間が作った話に乗っかって、戦争を美化し、戦争屋と政治屋の言いなりになってはいけない。」と強く語ってくれたのを思い出す。本当に体験をしていない人ほど美化する。または、過ちを犯した人ほど、それをなかったことにしたい心理が働く。現場の真実を知る人間にとって、特攻隊を軽率に美化されることがたまらなく嫌だったのだろう。本物の人間のみ語る言葉である。11月10日、享年88歳。直前まで安保法案反対のデモに参加し、講演活動を行っていたそうである。合掌。

日高恒太朗氏は、拙著の後書きにも書かせていただいた。彼の特攻隊員への聞き取り調査をドキュメンタリー形式で書いた「不時着ー特攻ー死からの生還者たちー」を今、読み返している。実は日高氏が昨年の11月3日にお亡くなりになったことは知らなかった。享年63歳。早すぎる死であった。早稲田大学近くのイタリア料理店で、編集者とご一緒にお会いした時、強面かと思いきや、ちょっとはにかんだ笑顔が印象的であった。彼の著書に出てくる特攻隊員とそれらしき偽物の特攻隊員の現実の話には深く感動した。そして、最も気になる一文があった。

「特攻隊員は全員ではないけど、士気高揚のために麻薬を飲ませられていたこともある」ということだ。これは戦後ヒロポンと言い、疲労がポンと治る、という意味で出回った液体の飲み物のことであるそうだ。最後の杯に知らない間に入れられた人もいるそうだ。なんということか。上層部の人間は、安全地帯にいて自分はいかず、若者を麻薬でごまかしながら突撃させていた、という事実。恐ろしいことだと思った。

一つずつ丁寧に聞き取ることで現実が見えてくる。この手法を私は継承していきたいと思っている。ここに書き込んでくださっている読者の皆様にもそういう地道な方々が多いのは、大変嬉しい限りである。

ボイスレコーダーの改ざんなど、許されるはずもないが、もし平気でそのようなことをしていたのなら、それも戦争中でない1985年の平時の日本で行っていたとするならば、実行犯は一体どういう人間たちなのだろうか。これは明らかに犯罪行為である。これでは、今の安保法も通常の知識人ならば誰もが危惧するのはよくわかる。あの日の犯罪行為を懺悔し続けながら生きている人は果たしているのだろうか。例えば、レーダーで見ていた人、ボイスレコーダーを改ざんした人、「私は東大法学部ですよ、多方面にパイプを持っているのですよ」と、暗に事故原因追及する遺族を脅した人、羽田空港管制官で事実を聞いていた人、あの夜、御巣鷹山にいち早く到着した相馬が原の人々、墜落前の日航123便の横をファントム2機で追尾した人、そして指示した自衛隊トップ、当時の政治家、机の下でブルブル震えていた当時の高木日航社長・・・

間接的に罪を犯していることを彼らは知っているのだろうか。今もなお無自覚に、ただ組織の中で言いなりになって行動していただけ、と言い逃れるとすれば、天空の星たちはけして天国への道を歩むことを許さないだろうなあ。きっと地獄はあちら、と追い返すことだろう。

お二人に合掌。

 

 

 

 

なぜ松永はウソをついたのか~中曽根氏の戦後日本外交から読み解く

中曽根康弘が語る戦後日本外交(2012年、新潮社)」から見えた事実 

                                   青山透子

随分と分厚い本の中で、日航機墜落事故(p417-p418)は、たったの2ページだけ記されていた。その内容は、遺族への哀悼の意や事故原因には一切触れず、終始言い訳のような内容であった。

その中で、新聞報道とのズレの部分は次のところである。事故の報告をいつ聞いたのか、という質問(中島琢磨龍谷大学准教授)に対して、中曽根氏は「日航ジャンボ機墜落事故の報告が私に届いたのは、軽井沢から東京に戻る列車の中で、午後7時過ぎでした」と答えている。しかし、当時の新聞報道では、上野駅から官邸に直行せずに40分以上もかけて走り、さらに到着後に囲まれた記者たちの問いかけに、「ほう、そんな事故があったのか」と答え、記者から言われて初めて知った、と記されている。2012年に聞いた時期を訂正している、ということになる。または昔の自分の言動を忘れて、素直に答えた、とも言える。

本当は、軽井沢から戻る列車の中の車掌用電話で知り、官邸に到着後、こちらから(官邸)から、対策の指令も出した、と述べているのだ。

さらに、墜落場所の情報が二転三転したという点については、

「米軍もレーダーで監視していたから、当然事故については知っていました。あの時は官邸から米軍に連絡は取らなかった。しかし、恐らく防衛庁と米軍でやり取りがあったのだろう」

と中曽根氏は述べている。米軍と防衛庁が勝手にやり取りをして、首相が知らないわけはない。もしそれが本当ならば、全くシビリアンコントロールが効いていないことになる。

しかしながら、圧力隔壁事故ならば、こんなこともいう必要はない。今更敢えて言うということは、今になって究極の言い逃れをしているとしか思えない。つまり、自分は知らない、関わっていない、米軍と防衛庁でやり取りをして決めた、というニアンスを感じるのである。全てを松永のせいにしている、ともいえる。これでこのまま中曽根氏がお亡くなりになれば、全ては自衛隊が悪い、ということにもなる。後世に名前を汚すのは、松永氏である。

 週刊金曜日(8月7日号)にも目撃情報を記載したが、一般の人々の目撃者たちは、墜落前の日航機をファントム2機が追いかけ、さらに並走飛行状態であったのを見ているのである。私の最大の疑問はなぜ、松永(当時の航空自衛隊中部航空方面隊司令官)は嘘をついたのか、に尽きる。今後、ここに焦点を当てて考えていきたいと思う。

 なお、一部の自称軍事評論者からは、自衛隊の模擬標的機は支援艦(護衛艦あずま)がないと無理で、あずまは呉にいたから無理だとか、シースパローはそんなに7,000m位までの高度なので1万メートル以上飛行する日航機は狙えない、横田空域だから演習はしていない、といった不確かな情報やご意見があった。その気持ちはわかるが、そちらも証拠がない。さらに公試内容は公開していないのだから、これらの意見もまた憶測に過ぎない。

 高度については明確に指摘が間違いであることを述べる。当時のキャプテンにも確認をし、自分のフライトログも確認したが、東京大阪間のフライトはいつも短いゆえ高度は低く、24,000フィート(約7,200m)位しか上がらない。さらに常に横田空域の許可を得て空域管制で情報を共有して通過していた。ドーンという音とスコーク77を出した時は離陸後12分位であるから、まだ上昇中であったことからも、シースパローが十分届く距離である。

模擬標的機がその時、訓練支援艦と共にあったかどうかは公試内容の情報を開示しないのでわからない。例え標的機がなかったとしても、炸薬非搭載ミサイルにおける仮想敵機で行っていた可能性もある。その昔、自衛隊雫石事故のこともあるため、こちらもわからない。ただ、雫石事故で十分「(隠ぺいの仕方を)学んだ」ということは関係者から聞いた。

いずれにしても、海上自衛隊射撃訓練区域はいつでも防衛省のHPで見られる。

横須賀警備区や野島崎南方C区域、大島付近、伊豆大島東方(Y-1)でも航空自衛隊と共に訓練を行っている。ぜひ読者も見てほしい。毎年、訓練は8月から9月に多いようである。